1484/1000 地蔵橋東児童遊園(東京都千代田区)

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地蔵橋東児童遊園は、JR神田駅から東へ400メートルほど離れ、首都高の高架がのしかかって来る昭和通り沿いにある小さな児童遊園です。
昭和通りの反対側には地蔵橋西児童遊園もあるようなのですが、片側3車線の上に間に首都高の出口まであるのでまったく見ることができません。


この場所には、もともとは江戸時代に開削された掘割が通っており、そこに架かる地蔵橋という橋の橋詰広場として開かれたもののようです。
●現地の解説板より「神田八丁堀跡」
「明暦3年(1657)1月18日の江戸大火は、俗に本郷の振袖火事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。史料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も10万人を数えたといわれています。
この大火ののち、まず防火のために八丁(約870m)にわたる土手が築かれました。天和3年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。その後、元禄4年(1691)頃になると町人達が自ら費用を負担して明地に掘割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。白銀町堀とも呼ばれ、のちに竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
掘割は、東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田2丁目1番)の南側のあたりで外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。東神田1丁目の所から南南東に向きをかえて新堀(のちの浜町川)となって日本橋浜町で大川(隅田川)に注いでいました。のちには、東神田1丁目の所から、北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていまいた。
この堀には、西から竜閑橋・白旗橋・西仲之橋・今川橋・東仲之橋・地蔵橋・火除橋・九道橋・甚兵衛橋・小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りには、かつて地蔵橋が架っていました。

平成14年3月 建替  千代田区教育委員会

国土地理院が公開している航空写真で1947年(昭和22年)の状況を見ると、昭和通りに直行するように掘割が流れており、地蔵橋の橋詰4ヵ所のそれぞれに広場状のスペースが見えます。
東京の橋詰広場は関東大震災からの復興事業の中で整備されたものが多いので、この公園もそれにあたるのではないかと思います。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より
USA-M451/写真番号:36/撮影年月日:1947/09/08(昭22)

現在も公園は一般道を挟んで2つのブロックに分かれています。幅から見て、掘割がそのまま道路に置き換わったものではなさそうですが。

2つのブロックのうち、北画は園地様の整備がされており、中央に何本かのイチョウの樹を植えた円形の築山を配し、その周りにベンチなどを置いています。

築山の上には、飛石や休憩用のスツールなども置かれていて、ぜひ積極的に散策してもらいたいという意図が伝わってきます。
また、飛石には使い古した感のある柱石が使われており、もしかすると掘割時代の縁石、あるいは昭和通りに市電が通っていた時代の敷石などではないかと勝手に思いを馳せてしまいます。

ほかにサクラやツツジなども植えられていて、賑やかな都会の中の小さな憩いの場といった風情を醸し出しています。

一方、北よりも少し幅が狭く、大きな歩道橋も迫ってきている南ブロックは、最低限の健康器具などを置いて、少し動的な利用を促す施設構成になっています。

ぶら下がり背伸ばし器や背伸ばしベンチなどの健康器具や、幼児向けのスプリング遊具などがあって、北ブロックよりも使いにくい立地を施設で補っている印象です。

小さいなりに、なかなか見どころの多い地蔵橋東児童遊園でした。

(2017年4月訪問)

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