1873年(明治6年)、明治政府が全国の府県に対して、「都市部でみんなが集まって楽しんでいる景勝地や名所旧跡などを”公園”にすることに決めたので、府県は適地を選んで、政府に提出するように」という布達を出します。これが、日本の都市公園制度の始まりです。
つまり公園も文明開化の一環で、みんな「公園ってなんだろう?」とは思ったのでしょうが、とにもかくにも兵庫県が選んだ場所の一つが、元町地区の山手にある諏訪神社の境内地。外国人が好んで住んだ北野地区にもほど近く、150年前にも景勝地として親しまれていたものと思われます。これが、諏訪山公園の始まりです。
まずは歴史に敬意を表して、諏訪神社から訪ねます。
参道や社殿周りは公園区域外ですが、そもそも諏訪神社があるから諏訪山、諏訪山にあるから諏訪山公園なのです。
諏訪神社なので御祭神は建御名方命なのですが、江戸時代中期からお稲荷様(倉稲魂命)も一緒に祀られており、現在はどちらかと言えばお稲荷様の色の方が強めです。
まぁ、平和な世の中では、武運長久よりも商売繁盛ですよね。
お稲荷様は、本殿に間借りするだけではなく、別の社殿も抱えておられます。この建物内に入ると、また沢山の祠が並んでいます。
開港後は、来日した華僑の皆さんの信仰も集めており、その方々の名が刻まれた鳥居なども見られます。とても神戸らしい信仰の場の一つだと言えましょう。
これも「納札所」となっていますが、もともとは道教で紙銭を燃やすための焚紙炉「金亭」として設けられたそうです。
さて、冒頭の一文で、1873年に公園ができたかのような誤解を与えてしまったかも知れませんが、じつは公園候補地にはなったものの、実際の整備はなかなか進まず、開園したのは明治も終盤になってからのこと。『神戸からの公園文化』(辰巳信哉,2000年)には、次のように書かれています。
1903年(明治36年)6月、神戸財産区の諏訪山遊園として公開して展望台が開かれ、続いて金星台を中心とする南部を1908年(明治41年)に開園した。この後、1928年(昭和3年)に動物園も設けられ...
最初に開かれた区域がどこなのかはっきりしないのですが、この文章を読むと、社殿よりも北にある展望地、現在はビーナステラスと呼ばれる一角ではないかと思われます。
でも今日はそちらには上らずに、諏訪神社から少し下がって、1908年に開園した"金星台を中心とする南部"に向かいます。
「金星台」は、諏訪山中腹の標高90メートル前後の平坦地で、1874年(明治7年)に、金星観測をするために切り開かれたことにちなみます。この観測について、国立天文台(NAOJ)のHPに、「日本において初めて観測された“金星の太陽面通過」という一文があったので、要点を掻い摘んで引用します。
そもそも、金星の太陽面通過と言って、地球と金星との公転のタイミングがうまいこと合うと、金星が太陽面を黒いシルエット状になって通過していくように見える現象があります。
これが100年くらいに2回あって(約8年あけて、2回がワンセットで発生する)、この時に地球上の各地で同時に観測すると、場所によって金星の位置が少しずつズレて見えます。そのズレを比較することで、地球と金星、太陽との間の距離の計算ができるのです。
17世紀に記録に残る観測が初めてヨーロッパでなされた後、18世紀には国際的な体制で各地で観測がなされ、そして迎えた1874年12月には、日本を含めたアジアの広い範囲で観測できるということで、欧米各国が共同で、当時最新の電信や写真なども使った観測隊を各地に送り込みます。
この時の観測体制をNAOJのHPから引用すると、次のようになります。
日本を含むアジア地域で、金星の太陽面通過の全過程が観測できるということから、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、アメリカ、メキシコなどが世界75箇所もの地点で観測を行いました。そのなかで、アメリカ、フランス、メキシコは日本にも観測隊を派遣しました。(メキシコは日本のみ)
アメリカ隊は長崎に、フランス隊は長崎と神戸に観測所を設置しました。いっぽう、メキシコ隊は(中略)横浜に観測所を設置しました。日本政府はメキシコ隊のため、横浜電信局から観測地点まで電信線を引いています。(中略)観測結果も直ちにグリニッジ天文台に送ることもできました。金星の太陽面通過を機に、日本の経度が世界とつながることになったのです。
ということで、神戸にやってきたフランス隊が観測場所に選んだのが、諏訪神社から少し下がった山腹地。観測日の12月9日の神戸は快晴。十分な成果を得ることができたそうです。そこで、貴重な観測の成功を祝って記念碑が設置されたことで金星台と呼ばれ、後にその周りが公園として整備された、という流れです。
現在は、金星よりも神戸市街地を望む眺望ポイントですが、21世紀初頭にもあった太陽面通過の際には、ここで子供たちを集めた観察会が開かれました。
この広場北側の池の畔に、円柱型の金星観察記念碑が建てられています。いわば金星台のシンボル。すぐ横まで歩いていける上に、「日本天文遺産」に認定されているため詳しい解説板があって助かります。
正面はフランス語、背面には日本語で「金星過日測検之処」と刻まれており、太陽面と金星経路のイラスト入りという凝ったものです。フランス語は読めないのですが、背面には「仏国派出人員 長官星学士: ジ・ジャンサン/附属測検:ドラクルワ/同:清水誠などと、観測にあたったメンバーの名も残っています。ただし、隊長のジャンサン博士は長崎で観測しており、神戸に来たのはドラクルワさんです。
そして、金星観測碑のちょっと上には、「海軍営之碑」があります。
海軍営とは、1863年(文久3年)、勝海舟の進言によって徳川幕府が神戸に設けた海軍操練所(海軍人材の養成所)のことで、そこに将軍家茂が来訪したことの記念碑として、勝の書が刻まれています。
ここでは坂本龍馬や陸奥宗光らが学んだことでも知られていますが、なにぶん当時の日本で先進的な海軍の必要性を感じて学びに来た塾生ですから、当然のごとく倒幕派が多く含まれており、幕府にしたら本末転倒だということで、1年ほどで閉鎖され、勝も江戸に呼び戻されます。
閉鎖によってこの碑も行き場を失い、勝が屋敷を借りていた神戸村の庄屋・生島家が保管することになります。それが1915年(大正4年)に寄贈されて、諏訪山公園に設置されたそうです。
黒御影の碑文は妙にピカピカしているので、ここだけ取り替えられているかも知れません。
ちなみに海軍操練所の跡地に近いNo.355 みなと公園にあるものは、この碑のレプリカのようです。
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| No.355 みなと公園の海軍営碑 |
金星台の広場には、ほかにも記念物が残っています。
下写真の左側はラジオ塔、右は...なにか水回りの施設でしょうか。
ラジオ塔は、上部4方向にスピーカー用の窓があり、下の方には電気の引き込み口もあるなど、かなりはっきりとラジオ塔の形をしています。
そして、金星台から一段下がったところが、『神戸からの公園文化』で“1928年(昭和3年)に動物園も設けられ...”と書かれていた諏訪山動物園の跡地、現在は子供の園という遊具コーナーになっています。
ただし、動物園の最盛期には、金星台の方にも獣舎が設けられていたようです。
実際に動物園があったのは、1928年から1951年までの23年間で、その後は灘区に新設された王子動物園へと移っていきます。間に戦争を挟むため、猛獣の殺処分といった辛い歴史も刻んでいるようです。
現在の「子供の園」には、飼育舎の跡を活用した遊具などもあり、うっすらと往時を偲ぶことができます。
ただ、こうした古い公園にはありがちなのですが、歴史的な金星台や動物園については、好きな人も多く資料が豊富なのですが、その反面、昭和中期以降に公園としてどういった整備がされたのかは、なかなか資料が見つかりません。
ここなど、飼育舎の屋上に回廊を通していて、その構造は動物園時代からあったそうなのですが、公園遊具にする時にどの程度の改造をしたのかが気になります。水抜きのパイプは後付けっぽいので、屋根を足してテラス風に仕上げたものか。
ここは壁面にタイヤが吊るしてあるのですが、もとはサルでも飼っていたのでしょうか。
エジプト風チャリオットのタイル画は、動物園時代のものか、あるいは戦後に作られたものなのか。でも開園当時の、約100年前のものではなさそうな色合いです。
この日時計は昭和中期の整備だと思いますが、なぜにプレーリードッグ。
園内の地形は、動物園時代から大きく変わっていないと思うのですが、市街地に面するガケ部分は、崩落防止のための擁壁が作られた関係で、少し状況が変化していそうです。
動物園時代の写真を見ると、下写真中央の園路は、もっとガケに沿って長く、滑り台の出口あたりに置かれた獣舎の方へ通じていたようです。
とか言いながら園内を眺めて、子供の園にある遊具もだいたい掲載して、最後に残ったのが舟遊具。前後に分割された難破船タイプです。
そして最後に残ったのが、冒頭の諏訪神社参道の西側エリア。
平坦な一敷地で、グラウンドと遊具コーナー、そして元・花とみどりのまち推進センターがあります。
公園化の経過がよくわからないのですが、資料によれば、この付近には1909年(明治42年)に建てられた武徳殿(第日本武徳会兵庫支部)があり、グラウンド部分が池だった時期もあるようです。
大日本武徳会は、明治中頃に日本武道の継承・振興を通じた国民の士気向上を目指してつくられたもので、戦後にGHQによって解体されるまで、京都・岡崎に本部を置き、柔道、剣道、弓道などのいくつもの武道が流派を超えて集まった大組織でした。これの拠点建物(道場)が武徳殿です。
一方、「明治天皇御小休所旧神戸税関監視部阯及建物」という石碑も残っており、戦前の史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく明治天皇聖蹟の史跡標柱だと思われます。
ということは、武徳殿が建つ前には神戸税関の施設があって、そこを明治天皇が訪問したのでしょうか。あるいは税関建物を武徳殿に転用した?
武徳殿は無くなって久しく、いまは神戸市の元・花とみどりのまち推進センターの建物があります。訪れた時は改装工事中で、六甲登山の支援拠点としてのリニューアルが進められていました。
現地だけわからないことが多いので、腰を据えて文献を探してみたい諏訪山公園でした、
(2026年3月,5月訪問)


















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