うるま市勝連の平敷屋(へしきや)は、勝連半島の突先の地区ですが、本当の突先の突先は、米海軍のホワイトビーチ基地になっています。
以前には地区の東にある平敷屋港のNo.2861 浦ヶ浜公園を訪ねましたが、今回は西の丘陵上にある平敷屋公園を訪ねます。
そもそも、標高70メートルほどのこの丘は、18世紀初頭に活躍した琉球王府時代の士族であり和文学者でもある平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)が、この地の脇地頭だった時に、水不足に苦しむ農民のために溜池を掘り、その土砂を盛ってこの丘を築いたものと伝えられてるそうです。
現在はうるま市指定の史跡「タキノー」となっていますが、肝心の溜池は大半が埋め立てられて小さくなってしまったそうです。
■現地の解説板より「平敷屋タキノー」
この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高70m余りの小さな丘です。 1727年脇地頭(領主)としてこの地を配された平敷屋朝敏は、水不足になやむ農民のために、ため池をほりました。その時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられています。
近年住宅化が進み、タキノーや池も整備・改修がなされ昔と趣を異にしたが、勝連半島を取り巻く太平洋のみはらせるすばらしい景勝地です。1986年には、和文学者でもあった朝敏の琉歌の記念碑も建立されました。
また、近くには御獄やヒータチムイ(のろし台)や平敷屋古島遺跡もあり、昔の集落を研究するにも重要な史跡です。
文化財保護条例により、勝連町指定文化財に指定する。(平成2年3月26日 勝連町教育委員会)
解説板がある東の出入口から、丘の上の公園を通り抜けた西側の写真を先に載せてしまいますが、そこに一周70~80メートルくらいの小さな池があります。これが朝敏が掘った溜池の名残なのでしょうか。
でも丘をひとつ作り出すほどの池だとすれば、埋め立てられたにしても小さくなりすぎですし、解説板を建てる場所を間違っていますから、あまり関係ないのかも知れません。
さて、もう一度、東の出入口から、坂道を登っていきます。
途中には古いシーソーの跡。
道の反対側は、緩い斜面をそのまま草地にした空間が広がっていますが、広場としてなにかに利用するには、半端な形をしています。
そんなものを見ながら、丘の頂上へ。そこには、平敷屋朝敏の琉歌の記念碑が建てられています。
哀そのはた打かへす せなかより ながるるあせや 瀧つしらなみ(意:この暑さの中で畑を耕している,農夫の背中から,瀧のように汗が流れ落ちる姿が,気の毒である)
その記念碑の裏を登ると、この丘の頂上。大きな休憩所があり、日陰で休みながら辺りを見渡すことができます。
でも、一番良く見えるのは、ホワイトビーチの基地内。
以前にNo.2709 桑江公園で考察しましたが、沖縄の公園には、土地を奪った米軍基地を見下ろせる場所に展望台を建てるという例があるので、ここもその一つではないかと考えてみます。
沖出しされた桟橋には、なにかしらの軍艦がタグボートに押されて着岸するところでした。
この基地には、沖縄からハワイへ移民した皆さんが、戦後の食糧不足の時に故郷に贈ったブタにまつわる物語も付いてきます。
■現地の解説板より「海から豚がやってきた~沖縄と世界のウチナーンチュをつなぐ真実の物語~」
1945年、第二次世界大戦下の沖縄は住民を巻き込んだ過酷な地上戦を経験しました。米軍が放った砲弾は鉄の暴風となって地上に降り注ぎ、形あるものすべてが焼き尽くされ、日米合わせて24万人余が亡くなりました。沖縄の惨状は県系二世米兵比嘉太郎の戦場レポートによっていち早くハワイの沖縄移民たちに届けられました。「島に人影なく、フールに豚なし」
沖縄は人だけでなく食の根幹といえる豚も失っていました。悲報を受けた世界中のウチナーンチュはふるさと沖縄を救うため大量の救援物資を送りましたが、ハワイの嘉数亀助(布哇連合沖縄救済会副会長、糸満市出身)は「生きた豚」の送付を発案しました。豚は沖縄の食糧難を救うだけでなく、同時に産業復興の大きな足がかりになると考えたのです。
「豚がいれば沖縄は大丈夫」ハワイのウチナーンチュはそう考えました。布哇連合沖縄救済会(金城善助会長)は、資金造成活動によって得た5万ドルで550頭の豚を購入します。1948年8月31日、550頭の白豚を載せたジョン・オーウェン号は、ハワイから渡った7人の豚付添人とともに米国西海岸のオレゴン州ポートランドを出港します。3度にわたって遭遇する嵐や機雷の危機を乗り越え、9月27日に勝連のホワイトビーチに到着しました。陸揚げされた豚はすべての市町村に公平に分配されて周到な繁殖計画のもとに増え続け、4年後には10万頭を超えました。これを境に沖縄の食糧事情は改善され、多くの人命が救われました。
1900年に沖縄初の移民がハワイに渡ってから一世紀余。世界に雄飛したウチナーンチュは、苦難の歩みを刻みながらも持ち前の明るさと強固なウチナーンチュネットワークによって繁栄を続け、社会的地位を築いてきました。彼の地に確かな足跡を残しつつも郷里の文化を慈しみ、沖縄との緊密な関係が保たれてきました。ハワイから贈られた豚の物語は、沖縄と海外のウチナーンチュの絆を伝える象徴として今も語り継がれています。世界の沖縄移民が未来永劫に「ウチナーンチュ」であることを願い、ここに「海から豚がやってきた」記念銘板を設置します。
豚輸送付添人平成28年12月うるま市安慶名良信、上江洲易男、島袋眞栄、山城義雄(以上うるま市出身)、渡名喜元美(南城市出身)、仲間牛吉(糸満市出身)、宮里昌平(本部町出身)
展望台に建つシーサーは、地元中学校の卒業生一同からの贈り物。7体あるうちの1つであるそうですが、ほかの6体がどこにいるのかは知りません。
そして、公園のすぐ隣に、1940年(昭和15年)に建てられた製糖工場跡が残っているので、ついでに訪ねました。
もともとは、工場内の動力用のボイラーのために、煙突が3本建っていたようですが、今はそのうちの1本だけが残っています。
■現地の解説板より「平敷屋製糖工場跡」
平敷屋製糖工場は1940(昭和15)年、勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して新設された共同製糖工場です。昭和初期の沖縄では、甘蔗圧搾に畜力を用いる伝統的な在来製糖場と、動力機を備えた共同所有の共同製糖場(改良製糖場ともいう)が共存していました。1928(昭和3)年以降、共同製糖場を新設する組合に対し補助金が交付されるようになり、設立が促進されました。そうした背景のもと、蒸気を原動力とし、共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が設立されました。「平敷屋字誌」や聞き取り調査等によれば、敷地入口には事務所があり、工場建物は南向きで、ボイラー室や圧搾機、搾り汁を煮詰める鍋などがあったといわれています。工場前面には3基の煙突が立ち、煙突の一つは蒸気機関(45馬力)のポイラーにつながり、燃料には石炭を使用していました。1944(昭和19)年10月におきた十・十空襲以降、工場は操業できなくなり、その後、米軍の攻撃により破壊されましたが、煙突1基と貯水槽だけが残りました。煙突はイギリス積みのレンガ造で底部が約2.53m×2.53m、高さ約16.3mの四角鍾台の形状で、煙突表面には沖縄戦当時を物語る複数の弾痕が残っています。貯水槽はコンクリート造で、平面が約9m×10.5mの略長方形で深さが約3.0mあります。X線調査の結果、コンクリートの躯体には、鉄筋のほか、竹が使用されていたことがわかりました。沖縄の基幹産業である製糖業に関わる貴重な遺跡として、2015(平成27)年1月に国の登録記念物として登録されました。(設置:うるま市教育委員会)
むかしは周りにサトウキビ畑が広がっていたのでしょうが、数十年のうちに樹木が生い茂り、いまは東南アジアあたりのジャングル内遺跡のような風情になりつつあります。
コンクリート製の貯水槽はそれほどでもないのに、レンガだとジャングルに飲み込まれたような雰囲気担ってしまうのは、なぜでしょう。アースカラーだからかな。
タキノー、ブタ、レンガ煙突と、小さな範囲で色々と楽しめる平敷屋公園でした。
(2024年11月訪問)
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