沖縄県八重瀬町の戦争遺跡公園は、町の『八重瀬町戦争遺跡公園の設置及び管理に関する条例』に基づいて設置された公園です。
どんな条例でも色々と用語の定義をするものなのですが、この条例では「”公園”とは、整備されたガマ(壕)等の戦争遺跡、トイレ、駐車場、その他附属施設をいう。」、「公園の名称は”ヌヌマチガマ”とする」など、一般的な都市公園とは違った定義がされていて、読むと面白いものになっています。
でも条例に「公園の名称はヌヌマチガマとする」と定めている割には、入口横に建つ案内図には、おもいっきり「戦争遺跡公園」と書かれています。
”ヌヌマチガマ”とはどのようなものかについては、町道よりも西側のブロック、案内図でいうと右側に置かれた解説板に詳しく刻まれています。ここの地下に広がるガマ(洞窟)のうち西側部分の呼び名で、沖縄戦時には負傷兵を収容する病院壕として使われたものだそうです。
■現地の解説板より「八重瀬町戦争遺跡公園-ヌヌマチガマ・ガラピガマ」
太平洋戦争末期の1945年、ここ沖縄は住民を巻き込んだ地上戦の場となり、20万人を超える尊い命が失われた。八重瀬町(旧東風平村,旧具志頭村)では、当時の人口の5割近い約7,500人の住民が亡くなった。
住民が二度と戦火に巻き込まれないように、また、世界中から戦争や紛争がなくなることを願って、八重瀬町ではこの地を平和について考え永代に語り継ぐための場とする。
沖縄戦では、日本軍は当初、米軍の上陸地点を八重瀬町南部の港川と予想していたため、港川海岸を囲むように日本軍の陣地が配備され、港川海岸に近いこの周辺も使用された。
沖縄では自然洞穴のことを「ガマ」といい、ここに広がる全長約500mのガマ(一部人工壕)の西側を「ヌヌマチガマ」、東側を「ガラピガマ」と呼ぶ。ここ「ヌヌマチガマ」は、1944年、第24師団歩兵89連隊第2大隊の治療室として使われたが、1945年4月下旬、富盛の八重瀬岳にあった第24師団(山部隊)「第1野戦病院の本部壕」で増加する負傷兵を収容できなくなったため、「東風平分院」とヌヌマチガマが「新城分院」として開設された。
この「ヌヌマチガマ」には、軍医、看護婦、衛生兵と、補助看護婦として第1野病院に配属されていた沖縄県立第二高等女学校の学徒隊(戦後の呼称「白梅学徒隊」)から5人が派遣され、炊き出し・包帯の洗浄などで地元の住民や女子青年も動員された。
「ヌヌマチガマ」には、手術台・病室・2段ベット等が設置されていたが、負傷兵が増加するに伴い、藁を敷いた地面にも寝かされるようになり、多い時には1,000人を超えたと言われている。戦況の悪化により食事の“おにぎり”も1日2回から1回になり、薬品も包帯材料も不足して十分な治療を行なうことができなくなった。
6月3日、「東風平分院」とこの「ヌヌマチガマ」(新城分院)は閉鎖され、翌4日には、第24師団第1野戦病院も閉鎖された。病院の閉鎖に伴い身動きのできない重傷兵は、衛生兵によって毒薬の青酸カリを投与されたり、銃剣などで「処置」(殺害)された。その数は約500人とも言われている。
「ヌヌマチガマ」「ガラピガマ」は病院壕としてだけではなく、住民たちの避難壕としても利用されたのかは不明だが、沖縄戦では、行き場を失った多くの住民たちの命を守ったのは、このような「ガマ」であった。
白梅学徒隊は6月4日に病院長の解散命令を受け、鉄の暴風と形容されている地上戦を彷徨し56人中22人が戦没している。(2015年3月 八重瀬町 沖縄県立第二高等女学校白梅同窓会)
病院壕として使われた大きなガマなので、今も手すりなどが整備されて見学可能だそうですが、原則として平和学習の団体向け・ガイド付きだけを受け入れているようで、フラッと訪れたこの時は門扉が閉じられていました。
仕方がないので道を渡って、芝生広場などがあるブロックへ向かいます。
まず駐車場横の休憩所のあたりが、芝生広場。
広場とは言うものの、結構デコボコしています。
そこから見上げるのは、ひんぷんガジュマルと銘打たれたガジュマルの巨木。しかし周りも森なので、それほど大きくは見えないのが難点です。
現地の案内板によれば、ほかにも「気根の外周が28mもある”大王ガジュマル”」や「岩を抱いた2本立ちの”夫婦ガジュマル”」等の個性あふれるガジュマルたちがあるようです。
森の中の園路を少し歩くと、壕口が開いていました。
その近くには、柵などが整備されていない別の壕口もあり、手作り解説板が取り付けられています。
でもここには、冒頭の案内板とは異なり、「ヌヌマチガマ」と「ガラピガマ」は東西で分かれるのではなく、上下で分かれると書かれています。まぁ西側から入ると東に向かって徐々に下がっていく構造なのかも知れませんが、できれば書きぶりは統一していただきたいように思います。
そこから少し歩くと、さくらの広場。
植えた時の密植のままに育っているので、お互いに干渉し合って、あまり良い生育状態ではありません。大きく育てるなら、少し間引くほうが良いでしょう。
さくらの広場を抜けると、アカバナー(ハイビスカス)が咲く小経。こちらは気候にもよくあっているので、旺盛に咲き誇っています。
そして、木立を抜けたところに、赤瓦屋根の休憩所があり、
そこから海の方を見ると、ピース広場があります。
No.2856 竹谷東公園は少々微妙でしたが、ここは正真正銘のピースマーク。
ピース広場からの休憩所を見上げると、こういう位置関係で、逆に言えば見下ろされることを前提としてつくられたピースマークだということがよく分かります。
フォトジェニックというのでしょうか。
少し立ち位置を変えると、奥に大きなピースマーク、手前にハート&ピースマークのモニュメント。
そもそも戦時中は、休憩所が立つ小高い場所には対空監視哨が設けられていたようで、その跡地の案内も建てられていました。
現地での解説板不足でわかりにくいところもあるのですが、この岩を積み上げて作った穴みたいなものに蓋をして、対空監視をしていたのでしょうか。
沖縄戦の終結から80年。軍事施設であり、多くの人が亡くなった場所を平和のための公園にしたことは、非常に尊いものです。
でも、案内板についてはひとつだけお願いがあります。
それは、図中に「北を指す方位記号を大きく書き入れて欲しい」と言うことです。
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