沖縄県八重瀬町の新城(あらしろ)集落の西北端に、大きなシーサー滑り台を擁する新城農村公園があります。
とは言え、もともとはここが城であり拝所、すなわちグスクであり、ここがあるからこそ、この地区がアラグスクなわけですから、正確には「グスク中心部の東が集落になっている」と言うべきなのでしょう。
八重瀬町新城自治会のHP内『八重瀬町字新城の伝説や遺跡』では、ここは新城グスク(あらぐすくぐすく)として紹介されています。少し長いですが引用します。
字新城部落の北西寄り標高約90メートルの丘陵上に築かれた1万6千余平方メートルの広さがある山城の連郭式の古城跡で、出土遺物から14世紀初頭の英祖王統の時代に築かれたと推定されているが、この城を築城した城主等については、文献には一切記載されていない。
この城址の西北は絶壁となっており、城跡内の一番高い所には本丸跡と見られる所があり、その下の方に二の丸跡と思われる平地が続いている。野づら積みの城壁がところどころ残っているのは西北側と東南側で、城門は新城の部落を前にひかえた東寄りの方にあったと思われる。
この城は水を恩の井泉に求めていたという伝承や、最初の按司は奄美から来た人物が雄樋川を逆上ってきて新城に入ったとする伝承、3回落城して3回建て直してたとも伝え、さらには、この城は、築城中に中山から取壊しを命じられたので完成しなかったなどの伝承がある。現在新城グスク跡は、最も上部に近いところの字新城のお宮の周辺を除いて、すべて住宅地になっている。
さて、公園敷地は、緩い斜面地の遊び場と、グスクとしては本丸の中心であろう岩山部分、その手前のお宮部分とに大別できます。
まずは公園としての中心である遊び場ですが、遊具はおじさんっぽく座ったシーサーの滑り台が一つだけ。本ブログでも久しぶりの巨大コンクリート遊具一本勝負スタイルです。
コンクリートの表面がいい感じに傷んで、遺跡のような風格すら感じさせます。
滑るためには、お腹の部分のハシゴか、左足・左手をよじ登って、いちどシーサーの体内に入らないといけません。大人でも入れそうなので、とりあえず行ってみます。
すると、体内にも少しスペースがあって、シーサーの口に開いた窓のところまで上れるようになっています。ちょっとした展望台気分でもあり、囚われの身のようでもあります。
滑り出て、シーサーの周りをぐるりと巡ってみると、元々はなにかのパーツが取り付けられていたらしい痕跡がありました。大人の胸高もないくらいの高さなので、ネットやロープの遊具を吊るすにしては低く、何だったのかは思いつきません。
続いては、お宮の部分。と言っても、シーサー滑り台から10メートルほどしか離れていません。
中心となる祠・拝所はコンクリート製ですが、周りには古めの石造物が集められており、風格を感じさせます。
先にも登場した八重瀬町新城自治会のHP内『八重瀬町字新城の伝説や遺跡』には、こちらは新城のお宮として紹介されており、”新城グスク遺跡の中にある新城のお宮は、昭和10年に集落の各地にあった『琉球国由来記』に見えるハチヤノ嶽、オケノハナ嶽、上江洲ヒラ嶽を合祀したものである(中略)このお宮は沖縄戦で破壊されたが、昭和31年にコンクリート造りの神社形式の拝所に再建された”とあります。
続いて、お宮の裏側にある岩山、その頂上にある展望台に向かいます。
岩山岩山と言っていますが、ちゃんと展望台行きの階段があるから安心して登ることができます。
展望台の下には、とつぜんに石獅子(村落獅子)が。あたりの道路工事かなにかの影響で、ここに移されてきたのでしょうか。
丸顔と言うか、筒型というか、どこから見ても丸っこいシルエットをしています。
そこから、大木に巻き付いた蛇のような螺旋階段を登ると、
頂上に5~6人は立てるくらいの展望台があります。とは言え狭いので、思いっきり引いて撮影してもこんな感じですが。
展望台から集落方向を見渡します。遠くの方には、奥武島あたりまで見えています。
足元を見下ろせば、シーサー滑り台が小さく見えます。
シンボルはやっぱりシーサーな新城農村公園でした。
(2024年6月訪問)
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