江之子島(えのこじま)は大阪市西区の町名ですが、もともとは淀川河口近くにいくつもあった島のひとつで、とくに江戸時代から開発が進み、明治時代には大阪府・市の庁舎も置かれていたところです。
この町にあるのが、江之子島公園です。
ですが、出入口の横には雑喉場魚市場跡の石碑が建てられています。
ん、ここに雑喉場?
■現地の解説板より
大阪における魚市場の起源は、大阪城築城の天正11年(1583)以前とされるが、この地は古くから鷺島と称し、対岸野田村の漁人が集まり近海漁獲の雑魚を商う浜であった。慶安・承応年間(1648~55)以後、すでに上魚屋町(現中央区安土町)にあった生魚問屋が徐々に来住し、元禄年間(1688~1704)には大阪三郷のすべての生魚問屋がここに移って魚市場を形成し、いつしか雑喉場(ざこば)の名を冠する町となった。
以来、雑喉場魚市場は、逐次その規模を広め、面積3,130余坪を擁する西日本最大の生魚市場となり、大阪全市の需要のみならず、地方にも商圏を拡大し、堂島米市場・天満青物市場と並ぶ商都大阪の三大市場の一つとしての発展を遂げたものである。
近代になって、一層集散市場の役割を高め繁栄を誇ったが、ことに明治以後の日本漁業の近代的発展の母体をなす全国的基幹市場として単に流通面に限らず、生産面にも及ぶ水産業全般の発展に多大の貢献をしてきた。
その後、社会政策としての市場統合の機運の高まりに応じ、昭和6年(1931)11月福島区野田に開設された大阪市中央卸売市場に他の卸売市場とともに入場し、280余年にわたる歴史の幕を閉じたのである。(平成5年(1993)12月 雑喉場魚市場記念碑委員会建之)
碑を見つけた時に若干の違和感を感じたのは、「大阪の雑喉場って、江之子島の対岸(百間堀川の東岸)にあったんじゃなかったっけ?」ということなのです。
確認のために、国際日本文化研究センターのサイトで1895年(明治28年)の地図を見てみます。すると、やっぱり江之子島から川を渡った東側に「魚市」と書かれています。
1895「大阪市明細地図」(国際日本文化研究センター蔵) |
さらに先ほどの記念碑の横にあった名所図で見ると、東側(雑喉場側)は漁船が着けやすいように砂浜にしてあり、魚屋や漁師たちが忙しそうに働いているのに対して、西側(江之子島側)は石垣の上に料亭風の2階建てが建ち並び、羽織を着た人が話し込んだりしていますので、やっぱり川の東西で町の様子が違っているように思います。
でもよく見ると、江之子島の北端あたりに「川魚市場」とも書かれており、ひとまず「メインの雑魚場は東側、でも西側にも一部広がっていた」と曖昧な理解をしておきます。
さて、現代の江之子島に戻ります。
上の名所図とは逆向きになりますが、写真左の道路がだいたい元の百間堀川、2階建ての料亭?が並んでいたのが公園敷地くらいになると思います。でも川幅は今の道路幅よりも広そうなので、一部、住宅側や公園側にまで川は広がっていたのでしょう。
園内は周りの道からは1メートルくらい高くなっており、真っ平らではなく、若干の起伏があります。
この盛り上がりは、公園の周りにまったく連続していないので自信がありませんが、どことなく堤防跡のようにも思えます。
園内に平らな場所が少ないこともあってか、遊具はバケット式の2連ブランコがひとつだけ。その横の小さな斜面で歩き回るのも含めて、幼児向けの遊び場となっています。
あとは、なんとなく和風っぽい休憩所からあたりを眺めるくらいでしょうか。
周りはマンションも多く、都会の貴重なオープンスペースになっている江之子島公園でした。
(2024年5月訪問)
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