幕末、蝦夷地の近海にロシア船を始めとする外国船が頻繁に出入りするようになったことなどから、江戸幕府では警備強化を目的に、松前藩領を大きく削減し、蝦夷地の大半を直轄地とします。しかし、そんな広い範囲を幕臣だけでは警備できないので、その役目を仙台藩、津軽藩、南部藩などの東北諸藩に命じます。
この時、蝦夷地南部から国後、択捉あたりまでの太平洋岸を受け持つことになった仙台藩が、ここ白老(しらおい)に置いた活動拠点が白老陣屋。陣屋とはいいますが、面積は6.6haもあり、川を天然の堀とし、土塁と堀とで防備を固め、実質的には平城になっています。
実際に稼働したのは、1856年から幕府が瓦解する1868年までの12年間。その後は放置されますが、藩士の墓が粗末に扱われていたことを気の毒に思った地域の皆さんが顕彰に努め、1966年(昭和41年)には国史跡に指定されます。
ここが整備され、入場無料の史跡公園として公開されているので、訪ねてみました。
国史跡としての名称は「白老仙台藩陣屋跡」ですが、町施設としては「仙台藩白老元陣屋」と言います。史跡指定区域外も含めての施設名かと思うので、本ブログでは地元優先で、後者の名で呼びます。
ちなみに元陣屋というのは、元・陣屋ではなく、「本部-支部」という間柄の「元陣屋-出張陣屋」という用語があるのです。
現在は北と南とに出入口があり、北のほうが資料館やバス停などがあって便利なのですが、陣屋としての正面は南側なので、今回はそこから入ります。
「入ります」と言いましたが、現地ではいきなり二重三重の土塁が行く手を阻みます。
今は園路が通っていますが、昔は木柵や木戸、水堀なども組み合わせて防御がされていたものと思います。
そこを抜けると、虎口のところに大門が復元されています。
大門を入ると、まず外曲輪。
陣屋当時は、藩士たちの長屋や、稽古場などが建てられていたスペースですが、いまはそこここにケヤキやシラカバの大木があり、美しい林になっています。
建物跡については平面表示になっており、柱の位置と間取りくらいがイメージできるようになっています。
解説によれば200人ほどの藩士が詰めていたらしいのですが、1人分のスペースがどれくらいかは、よく分かりません。
2間四方の部屋に、2人ずつくらいあてがわれていたのでしょうか。
三番長屋の奥に見えている大きなアカマツは、仙台藩が持ち込んで植えたものだそうで、数百本が植えられたものの、いま残るのはこの1本だけだとか。
寒くて雪も多い北海道には、アカマツはあまり向いていない樹種です。
燃料や防風などに使い慣れたアカマツを持ち込んだのかも知れませんが、育ちやすさの面では、やはり地元の樹のほうが勝ります。
そのままトボトボと北へ進み、内曲輪を囲む堀を、木橋で渡ります。
内曲輪はいわば本丸で、本陣や兵具庫など陣屋としての拠点・管理施設が建てられていたスペースです。
いまは堀と土塁が復元されていますが、園内の解説板などを見ると土塁の上には木柵が張り巡らされていたようです。
でも、これだけ見ると、弥生時代の環壕集落からさほどの進化は無いようにも思います。
内曲輪に入ります。外曲輪よりは狭いこと、中枢部ということでよりハッキリと遺構を際立たせる整備が行なわれていることとで、外曲輪よりも広く見えますが、実際は直径100メートルほどのやや歪な円形をしています。
復元展示の手法は、外曲輪と同じです。長屋よりは、ひとつひとつの部屋が広いですね。
内曲輪を通り抜けて、北側。陣屋当時はとくに建物などは建てられていなかったようですが、自然の川を水濠代わりにしています。
現代の公園として見ると、地形や風景に変化があり、歩いて楽しい空間になっています。
資料では、薬草園などが設けられていたことが書かれているのですが、現地で名残を感じることはありません。
奥に見える山の上には、仙台藩の地元から勧請された塩竈神社が祀られています(いました?)。
鳥居もあって、現地の解説板には”陣屋撤退後も地元住民の手によって守り継がれています。現在の社は、昭和29年台風のために倒れた赤松を用いて改築されたもので、これは仙台藩士が元陣屋築造時に仙台から運んできた苗木が大きくなったものでした。”と、非常に良いエピソードが記されているのですが、施設名としては「塩竈神社跡」となっています。
国史跡内に宗教施設があると良くないなど、なにか理由があるのでしょうか。
そこから東へ向かい、資料館をすぎると駐車場やバス停があって、区域はおしまいです。
歴史探訪とか肩肘張らずに、みんなもっと散歩に来るといい仙台藩白老元陣屋でした。
■現地の解説板より「史跡 白老仙台藩陣屋跡」
昭和41年3月3日史跡指定(国)/昭和51年7月8日追加指定(国)
この陣屋跡は、安政3年(1856)蝦夷地の防備を固めるため、仙台藩が築いたものである。
安政元年(1854)徳川幕府は鎖国を解いてアメリカ・ロシアと和親条約を結び函館港などを交易場とした。
このため幕府は、蝦夷地を直轄地とし、翌年仙台藩をはじめ、津軽・秋田・南部の奥州諸藩と松前藩に警備を命じた。安政6年、庄内藩と会津藩も加わる。)
仙台藩の守備範囲は白老から襟裳岬を越えて、国後・択捉までの東蝦夷地であったため、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・クナシリ・択捉に出張陣屋を築いた。
元陣屋の面積は6.6.ヘクタールで堀と土塁を円形・弧状に巡らして、内曲輪と外曲輪を構成している。ここは、本陣・勘定所・穀蔵・兵具蔵・長屋などがあり、少し離れた東西の丘陵に塩竈神社と愛宕神社を祭った。
元陣屋には、200名ほどの人々が駐屯して警備にあたったが、明治元年(1868)戊辰戦争のぼっ発によって撤収するまでの12年間慣れない土地での仙台藩士たちの苦闘が、この陣屋跡に刻まれている。(文部省、白老町)
(2024年10月訪問)
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