3572/1000 日和山公園(宮城県石巻市)

2024/03/12

宮城県 自然災害伝承碑 石巻市 石碑めぐり

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石巻市の日和山公園は、南に太平洋、東から北には江戸時代から仙台の外港として栄えた旧北上川河口付近を眺めることができる高さ50mあまりの段丘に設けられた公園です。

付近は中世の城址で、山頂には式内・鹿島御児(かしまみこ)神社も祀られており、古くから多くの文人墨客が訪ねて来るなど、石巻を代表する景勝地を活かして公園としたものです。

現地の解説板より「日和山」

日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました、日和山は出港に都合のよい風肉きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。
元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曾良が石巻を訪れた時の『曽良旅日記』には「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル 奥の海 今ウタノハト云 遠嶋尾駮ノ牧山 眼前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。
また、「奥の細道」には「…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり」と表現されています。「こかね花咲」とは、万葉集巻第十八にある大伴家持の、「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」の歌をふまえています。天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。
鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡坊の門人である棠雨を中心として建立された「雲折をり人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。
また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折口信夫)などの文人が訪れてあり、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。

上で引用した解説板は、まさに鹿島御児神社のすぐ横、この公園のメインエントランスになる場所に建てられている古いものですので、ここがもっぱら長閑で美しい景勝地として知られた時代のことが中心に書かれています。
しかし、近年になって、この公園が脚光を浴びたのは、2011年(平成13年)の東日本大震災で多くの皆さんの避難場所となったことでした。

展望広場から見えている海と山との間にあった町は、津波と津波火災によって壊滅し、いまも復興事業が進められている状態です。ですので、解説板も新しいものが建てられています。

現地の解説板より「日和山」

日和山は、松尾芭蕉、石川啄木、宮沢賢治など多くの文人墨客が訪れた、石巻のシンボルです。
目の前には広く太平洋が広がり、牡鹿半島、遠くには蔵王連峰、そして時には相馬地方の山並みまで見ることができます。そして春には桜、ツツジの名所として多くの市が訪れる憩いの場所でもあります。
標高約56mの小高い山は、2011年3月11日の東日本大災時、数えきれない人が避難した命の山となりました。そして避難してきた人々は、降りしきる雪の中、信じられない光景を目にします。高さ6mを超える大津波が目の前の街並みや車を押し流し、同時に発生した津波火災によって燃え上がる街の景色です。
人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたのです。

上写真で、手前の方に見えている建物は復興住宅、それより先の平坦な土地は、石巻南浜復興祈念公園です。祈念公園の海側と山側、それぞれに堤防が新しく築かれており、2本の堤防で津波から守る形にしたことで、津波被害を受けた場所の一部にも復興住宅を建てることができるようになりました。
でも元々の地区からすれば、人が住める場所は、ざっと測って1/7~1/8くらいに小さくなりました。

私のような余所者でも、ここから眼下を見渡すと複雑な気持ちがグルグルと渦巻きますので、生まれ故郷に暮らすことができなくなった地元の方はなおさらだろうと思います。

展望広場を振り返ると目に入る、鹿島御児神社の鳥居再建記念碑も、震災にまつわるモニュメントの一つです。

石巻老人クラブ連合会が建てた東日本大震災記念碑「友愛」もあります。

東日本大震災に絡むモニュメントをもう一つ。それが川村孫兵衛重吉(かわむら・まごべえしげよし)の銅像。

江戸時代初期、仙台藩に仕えた孫兵衛重吉は、藩の命により北上川(現在の旧北上川)の改修や運河の開削、河口付近での港の整備などの大土木工事を成し遂げた人物です。
これにより仙台藩だけでなく、遠く南部藩(盛岡)までが北上川の舟運によって繋がり、石巻が港湾都市として大きく発展する礎を築きました。
そういう人物の銅像なので、本来は震災とは関係ないのですが、銅像が指差している方向がアレでして、

指差しているのが彼が整備した石巻の川湊方向。下写真でいうと左側が市街地で、中の島も含めた川沿いに藩の御蔵が建てられ、芭蕉が記す「数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり」様が見られたそうです。

ただ、この整備のできがあまりに良かったのか、基本構造が現代に至るまでずっと残っていたようで、震災前までの付近は河川堤防が存在しなかったのです。現地の解説板にあった震災前の様子が下写真で、ヨットや漁船が泊っている川面からすぐに市街地が続いている状態がわかります。
これでは津波や洪水にめっぽう弱く、奥に見えている市街地の広い範囲が津波による浸水被害を受けました。

下写真が、その反省に立って堤防が築かれた現在の様子で、大きな堤防法面が連続するように変わったことがわかるでしょうか。
町と川との距離が開いてしまいましたが、代わりに川沿いのプロムナードが作られたりしていますので、現代的には止むを得ないかな、と思います。

さて、せっかくの訪問ですので、震災のことばかりでなく、公園が本来持っていた魅力・資源についても書き留めておきましょう。
ただ、なにぶん広くて、石巻ゆかりの石ノ森章太郎のキャラクターが案内してくれる案内板を載せても、一口では語り切れません。

まず上の地図での現在地が、鹿島御児神社のすぐ横で、園内では頂上にあたる展望広場。冒頭の写真を撮影した場所でもあり、眺めの良いベンチや休憩所がいくつか置かれています。

レストハウスか管理事務所のようなモダンな建物もあるのですが、この時は、中に入ることはできませんでした。

そこから大雑把に、西方向に市街地に繋がるなだらかな傾斜の園地と、東方向にやや山道っぽいところを通って旧北上川沿いに通じる園地があります。
上の案内図とは別に「文学の散歩道案内板」というのも設置されていて、それによれば西が「つつじ公園」、東が「さくら公園」となっていますが、西にもサクラはあるし、東はけっこう常緑樹も多くて、この案内板が置かれた頃とはかなり様相が変わっています。

では西側の園地。
ずっと「山」と言っているので、市街地から離れた場所のように思ったかも知れませんが、公園の西側は住宅や高校がすぐそばにある市街地で、とくに住宅地に近い一角には遊具も置かれています。

遊具は複合遊具と2連ブランコが1つずつ。

どちらもまだ新しいものですが、さほど大きいわけでもなく、ご近所の子供たち中心の利用ではないかと想います。

これはブランコ横の休憩所なのですが、中程で見た案内図には、この付近に「鹿小屋」と書かれていたので、それが撤去された後に小屋のイメージを踏襲して建てられたのではないかと思います。

もっとも、遊具のすぐそばには大きなマツやツツジの植栽地、サクラなどが連なっており、全体的には昔ながらの景勝地の流れを汲む園地です。

そこからもう少し公園中心部に近づくと、記念碑、歌碑、彫刻などが林立する一角に入ります。上の案内図では「彫刻の広場」となっている一角です。

まずは「おくのほそ道300年記念」として建てられた、芭蕉と曽良の銅像。解説板の中でも筆頭に挙げられていましたので、並み居る文人墨客の中でも別格扱いなのでしょう。

その証拠に、顔出しパネルまで設置されています。

続いては、クジラの像。石巻は明治から昭和中期頃までは捕鯨が盛んで、今も沿岸捕鯨の拠点のひとつなので、きっとその関係で設置されたのだろうと思ったら、横の碑文に違う理由が書かれていました。

1961年(昭和36年)のチリ地震津波の被害に対する支援を受けて、地元のロータリークラブが、日本近海捕鯨株式会社の協力を得てクジラの噴水を設置した旨が記されています。
今となっては、この碑に刻まれた「襟をただし はるかなる海底にねむる 万霊の冥福を祈るとゝもに 常に心しよう 海難はまたやってくることを」の言葉が深く染み入ります。

本ブログで”石碑めぐり”ラベルを付けている公園は、その町で古くからシンボルになっている公園で、何かと寄付されて石碑が林立(乱立?)している公園が多いのですが、ここ日和山公園はその中でもトップクラスで、まだまだ続きます。

下写真左は、戦後に衆議院議員を務めた内海安吉(うつみ・やすきち;1890 - 1976)の胸像。碑文によれば、石巻出身というわけではないのですが、石巻、牡鹿、桃生地方住民の福祉に大いに向上されたそうです。
右は、たぶん内海安吉とはとくに関係がないと思われる鶯蛙会・百吟会句碑。表面がかすれてしまい、ほとんど読むことができません。

こちらは、数ある石碑の中でも特に大きくて立派な招魂碑。1922年(大正11年)5月に建てられたものだというので、公園の中でもかなり古株です。
招魂碑は一般的には戦死者の霊を祀るものですが、ここのものは漁業や漁獲量のことなどが刻まれており、一風変わっています。大きすぎて高いところの字を読むことができないのですが、もしかすると全国のものとは少し違った経緯の招魂碑なのかも知れません。

続いて東方向の園地へ。先に書いたように、こちらに来ると急に山っぽくなり、斜面の林の中を縫うような園路の所々に平坦地の小広場があって、そこここに石碑が置かれています。

もちろん、さくら広場の愛称どおりに桜もたくさん植えられており、石巻さくらの会「花をたたえて」の碑などもあるのですが、エリア全体としては雑木林というイメージです。

文学碑としては、釈迢空(折口信夫)「海のおもいよいよ青しこのゆふべ 田しろあぢしまかさなりて見ゆ」の歌碑。
神社庁の仕事で石巻に来た時に読んだと、解説板に書かれていますが、今となっては周りが笹薮担っていて、海はまったく見えない場所にあります。

こちらは石川啄木が、盛岡の中学生だった時に修学旅行で石巻を訪れた時に詠んだ歌「砕けてはまたかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」の歌碑。
旧制とは言え、中学校の修学旅行で歌を詠むというセンスが、さすがは啄木と言うべきなのでしょう。

こちらは宮中歌会始の選者も務めた木俣修「大漁の旗あぐる船より呼ぶこゑに こたふる如して海鳴りの音」の歌碑。仙台で師範学校の教鞭をとっていた頃の歌で、もともとは山裾の南浜地区にあったものを、津波被害を受けてここに移設したと解説板に書かれています。

次に来る時は、のんびりと茶屋で団子でも食べてみたい石巻市の日和山公園でした。

(2023年11月訪問)

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