沖縄県名護市の名物といえば、まずは市街地の入口にあたる道の真ん中にそびえ立つガジュマルの巨木「ひんぷんガジュマル」です。
「ひんぷん(屏風)」とは沖縄の伝統的家屋の門と家屋との間に設けられる塀のことで、表の機能としては目隠しや風除け、裏の機能としては魔物除けとして設けられます。
樹冠直径30メートルにもおよぶひんぷんガジュマルは、国の天然記念物にも指定されており、市民誰もが目にしたことがある名木の一つだと言えましょう。
■現地の解説板より「名護のひんぷんがじゅまる(通称:ひんぷんがじまる)」
国指定天然記念物 平成9年9月2日指定「ひんぷん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温(ぐしちゃんおやかたさいおん)は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、 三府龍脉碑を建てました。 この石碑がひんぷんのように見えることから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか「ひんぷんがじまる」と呼ばれるようになりました。
ガジュマル(Ficus microcarpa L.f)はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植栽されています。漢名は榕樹で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠をつくっていきます。
ひんぷんがじまるは、推定樹齢280~300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的となり、写真におさまる周辺のようすで街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぷんがじまるは、まさに「市民」の木です。
平成12年(2000年)3月 名護市教育委員会
がしかし、じつはこれの西隣にある「がじゅまる緑地」にも、「ひんぷんがじゅまる」に負けず劣らず大きなガジュマルが葉を繁らせています。
それがこちら。
ひんぷんガジュマルとは30メートルほどしか離れておらず、樹冠長はともかく樹高でちょっと負けているためすっかり影が薄くなっていますが、土地の古名をとって「アパヌクのガジュマル」と呼ばれているそうです。
ただ、ひんぷんガジュマルが道路の真ん中にあって離れたところから眺めるしかないのに対して、こちらのガジュマルは直下にステージが設けられるなど、より親しみやすい位置関係になっている点が優位ポイントだと言えましょう。
「いつまでも永遠の2番手とは呼ばせない」という姿勢を勝手に感じ取ります。
そんながじゅまる緑地には、名護出身の著名人の記念碑が建てられていました。
こちらは昭和前期に活躍した洋画家にして左翼運動家・宮城与徳の記念碑。国際的スパイ事件として知られるゾルゲ事件に関わったとして逮捕された人物です。
■現地の碑文より「宮城與徳」
宮城與徳 みやぎよとく 1903.2.10~1943.8.2画家・宮城與徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。
移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。
アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、「働く者の食える社会」への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた與徳は日本に帰り、同志・尾崎秀美らとゾルゲ機関の活動に参加。
故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。
絵の才能を期待され、愛する甥に「いつかは君たちの時代がくる」と話していた宮城與徳は逮捕され、1943年8月 40才で獄死。
ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城與徳を記憶するため、この碑を建立する。
肖像は1927年、與徳24才のときの写真より
2006年1月25日 宮城與徳生誕百年を記念する会
その隣には、同時期に活躍した元日本共産党書記長・徳田球一(トッキュー)の記念碑。戦後のレッドパージを逃れて北京に亡命し、彼の地で客死したことが記されています。
出身地は同じ市で、活躍した時期や分野も似通っていますが、2人に交流があったのかどうかは知りません。だいたい戦前の社会主義運動のことに詳しくないので、2人の派閥・活動範囲に共通項があるのかもよくわからないのですが。
■現地の解説板より「徳田球一記念碑」
徳田球一(1894.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。
徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会主義運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、敗戦までの18年間獄中にありました。
戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、「徳球・とっきゅう」の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。
このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。
1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会
なんとなく、全体のトーンが「叛旗」で整えられている感のある、がじゅまる緑地でした。
(2020年1月訪問)
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