公園と一体化する形で区立保育園があり、子供たちで賑わっている様子が見て取れます。
江戸時代の末、この場所には「赤羽接遇所」と呼ばれた外国人向けの宿舎と応接所を兼ねた施設があったそうです。ただし、公園は戦後の区画整理で誕生していますので、周囲に幕末・明治の名残などは感じられません。
●公園附近沿革案内
飯倉という地名には、都内でも有数の古い由緒があって、歴史書「吾妻鏡」の寿永3年(1184)の条に源頼朝の寄附した土地として始めて現われる。そして集落は、それ以前の古代から確認され、穀倉あるいは芝公園の丸山にちなんで、飯倉の地名ができたといわれる。古くから街道筋となり、豪傑渡辺綱にかかわる伝説も生じた。
室町時代には特に豊かだったと想像され、江戸時代にも四辻を中心に繁華で、付近には大名屋敷や、学者が住むので先生小路というところもあって、維新後は劇場ができたこともある。
新町名は麻布台、東麻布に変わったが、今も公園や福祉会館などに飯倉の名を残している。なおこの飯倉公園は、戦後の区画整理事業によって建設されたものである。
港区の公園にしばしば設置されている『公園附近沿革案内』は、江戸時代の切絵図を示して、地名の由来や往時の町割りなどについて教えてくれる私好みの解説板なのですが、町割りがすっかり変わってしまった場合、公園の現在地がわからなくなることがありました。
「現在地」を赤丸ででも示してくれれば良いのですが、ここの場合は「切絵図の中に現在の公園の区画を潜り込ませる」という大胆な手法を採用していました。「飯倉公園・福祉会館」の部分は現代的なフォントではなく切絵図風の書き文字にしているところも手が込んでおり、なんだか幕末から公園があったかのような気分になってしまいます。
●現地の解説板より「赤羽接遇所跡」
赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年8月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。
黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの2棟の木造平屋家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
昭和48年3月 東京都港区教育委員会
さて、現在の公園。
三角定規のセットで直角二等辺三角形ではない方、と言えば伝わるでしょうか。あの形に似た変形の三角形状の敷地で、30°の側が芝生の敷かれた遊具広場、60°、90°の側が土敷きの広場になっています。
また、遊具広場には隣接する区立保育園の門が開いており、ここから子供たちが遊びに出てくるものと思われます。
なにしろ、芝生では「子供たちがお弁当を食べる」と指定されているほど、関わりが深いのです。
ちなみに、大人がお弁当を食べる場所は、別に用意されています。
芝生広場には、FRP製の山遊具、揺れる動物遊具などがあり、また土の広場との境目付近に複合遊具、ブランコ、砂場などがあります。
FRP製の山遊具は、一口で言えば「珍妙な形」なのですが、遊具なんて珍妙なものばかりなので、それほど目立ちません。
複合遊具は、ツイン、スパイラル、トンネルの3種類の滑り台と斜めガケ登りがくっついたもの。滑り台の種類こそ多いですが、サイズ的には低年齢の幼児でも遊べるものです。
ガケ登りも、最近よく見かける垂直なクライミングウォール型ではなく、斜めになっていて両手両足を使えば幼児でも登ることができるタイプです。
ところで、このガケ登りは、ジャングルにある謎の洞窟風の設定になっているようで、トカゲやヘビで飾られています。
洞窟の中に入ってみると、たくさんのコウモリも待ち受けています。
さらに洞窟の壁には、謎の暗号が書かれた壁画があります。
直訳すると「矢印からスタートして、時計回りに進め。すべてのシンボルをスキップして、古代の文章を読め。」と書かれていますが、今ひとつ暗号が解読できません。
こちらは2連のブランコ。
このように現代的で明るい雰囲気の公園ですが、一角には1938年(昭和13年)に建てられた旗台石柱も保存されています。
小さいながらも色々あって面白い飯倉公園でした。
(2017年8月訪問)
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