1384/1000 亀塚公園(東京都港区)

2017/01/24

古墳 港区 身近な公園 東京都

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亀塚公園はNo.1383 三田台公園から100メートルほどしか離れていないところにあり、どちらも江戸時代は大名屋敷、明治・大正時代には華頂宮邸になっていた眺めの良い台地上にある公園です。
三田台公園では縄文時代の貝塚が取り上げられていましたが、こちらは古墳と考えられる塚(亀塚)の周りを公園としたものです。

というわけで、園名板はカメ。なんだか逆さ吊りにされて、これから調理される場面のようです。

公園の外周部は邸宅だった時代の高い塀がそのまま使われていると思われます。No.1383と同じ形の塀で、両者が一続きのものだったことをうかがわせます。
亀塚公園に残る塀
No.1383 三田台公園の塀

そこから園内に入ると、まずは林間の芝生広場があります。
植えられている樹木は桜、トウカエデ、モチノキ、ハナミズキなどバラエティに富んでおり、春には花、秋には紅葉が、少しずつ時期をずらしながら長く楽しめるのではないかと思われます。

その広場を通り抜けた奥にあるのが、件の亀塚。
削られたり整備されたりでかつてとは形状が大きく変わっていると思われますが、現在は対角線方向で35メートルほどの大きさの四角形をしています。
●現地の解説板より「亀塚 - 東京都指定遺跡」
所在地:港区三田4-16-15,指定:昭和58年5月6日
古くから坪井正五郎博士によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行われず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和45・46年、港区教育委員会が主体となり、慶應義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以降に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成14・17・18年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。
しかし埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。
また平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝説の地とも伝えられ、文明年間に(1469~87)には、太田道灌が斥侯(ものみ)を置いたと伝えられています。
江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈(ときよりおき)が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。

平成19年3月31日  港区教育委員会、港区環境・まちづくり支援部

頂上は平坦な園地状になっており、江戸時代にこのあたりを屋敷にしていた上州沼田藩主・土岐頼熈が建てた石碑があります。

自分の邸宅内に碑を建てる目的が今ひとつわからないのですが「お客に見せる」「子孫に伝える」「家主が替わっても受け継がれるように」等々、いくつかは思いつく理由もあります。
●現地の解説板より「亀山碑-港区指定有形文化財 ,歴史資料」
亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2メートル、高さ1.4メートルの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈によって寛延3年(1750)に建てられたものです。
土岐家は明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が「更級日記」の竹芝寺伝説の故地であることや、塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。
大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。

平成26年3月10日 港区教育委員会

また大きな石碑の向かいには「亀塚霊神祠跡」という小さな碑もありました。こちらは解説などがないため詳細は不明ですが、塚の上にお社があった時期もあるようです。

さて、塚の話はこれくらいにして、園内にはほかにも遊具広場、芝生広場、普段は立入禁止の自然観察園などがあります。

塚のすぐ隣にある遊具広場は、園内のほかの場所と比べて幾分高くなっており、なんとなく塚とひと繋がりの墳丘の一部だったような気がしますが、気のせいかも知れません。
現在は中央に複合遊具、周りに滑り台や鉄棒、ジャングルジム、揺れる動物などを置いた構造になっています。

角ばったフォルムが特徴的な複合遊具は定番の滑り台が付いておらず、本ブログでは砦遊具と呼んでいるタイプ。昇ったり降りたりしながら、周りを見渡すという遊び方になります。

揺れる動物とコンクリート遊具は、どちらもカメです。

砂場は、簀垂れの屋根と全面ネットフェンスが後付けされており、ガードが固めになっています。犬・猫はもちろん、カラスやハトの侵入も許しません。

この公園で、もう一つ特徴的な施設が、こちらのビオトープ。
No.1383にも草地型のビオトープがありましたが、昼間は毎日開放されていました。
こちらはカントウタンポポやシロバナタンポポなどの在来タンポポや斜面林保全のために基本的には閉鎖されており、観察会など限られた時にだけ開放されるようです。
●現地の解説板より
この場所は、カントウタンポポ等の在来自然植生の保護及び、斜面林の保全のため、一般開放していません。
学校や区民の方などがこの場所の観察会等を希望される場合は、下記へ申請していただければ利用することができます。

問い合わせ:高輪地区総合支所 地区協働推進課 土木係

春だったらカントウタンポポの花も見えたのでしょうが、夏場は背の高い草に覆われているので、ただの草むらです。
カントウタンポポなど在来タンポポは、春に花を咲かせて夏場は休眠する性質を持っており、外来種のセイヨウタンポポは夏でも陽あたりが良ければ旺盛に生長します。そこで夏場はあえて草を茂らせることでセイヨウタンポポの育ちにくい環境をつくる手法だと見て取れます。

斜面林も保全対象ではありますが、その一部を縫って崖下に下りる階段が作られています。
この展望台状のデッキを抜けて、急な階段を降りていくと、御田神社の横手に出ます。

斜面林保全とのバランスが難しいところですが、これがなければ崖の上下を行き来するのに1キロくらい大回りする必要があるので、かなり役に立っていると思われる階段です。

ほかに園内で気になったのは、こちらの謎の物件。冒頭の逆さ吊りのカメの看板の後にも写り込んでいますが、園内の何ヵ所かに、頑丈な鎖を使って蓋に鍵がかけられたコンクリート製の箱のようなものがありました。
スツールではないし、資機材入れにしては小さいし、正体が気になるところです。亀だけに、玉手箱でしょうか。

高輪界隈の古い公園で見かける「公園付近沿革案内」
●現地の解説板より「公園附近沿革案内」
この公園付近は、江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。
ここは三田台から高輪、八ツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、庭内には老木、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であった。この地は、平安時代、菅原孝標の女が著した『更級日記』に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人工の築山であることのほか、その証拠はえられてない。華頂宮が廃家となり、一時内大臣官邸となったが、昭和8年建物はこわされ、さらに昭和20年戦災をうけ、昔の趣きを失った。昭和27年11月3日港区立公園として開園した。

港区高輪地区総合支所 協働推進課

こんな感じで、色々と盛り沢山な亀塚公園でした。

港区による公園紹介ページ

(2016年7月訪問)

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