1383/1000 三田台公園(東京都港区)

2017/01/23

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三田台公園は高輪の台地の突先にあり、伊皿子貝塚遺跡の発掘調査で見つかった住居跡や貝層などに関連する復元・展示などを行なっている公園です。
この付近が公園になる以前、大正時代までは、後日登場する亀塚公園も含めた広い範囲が華頂宮邸となっており、園内にはその名残も若干残っています。

出入り口の横には、公園の設置趣旨とも言える内容が書かれた看板が建てられていました。歴史公園のように、目的がはっきりしている公園ならではのものでしょう。
もっとも、付近の住居表示を知らなければわからない書き方がされているのは難点で、住居跡と貝塚遺跡が見つかったのは公園から崖を下がったところにあるNTTの敷地で、ここはそれを再現した公園ということになります。
●三田台公園について
昭和53年縄文、古墳時代の住居跡と貝塚断層が港区三田4丁目19番で発掘されました。これを長く保存すると共に、その当時の生活環境を身近に理解していただくため、これらを再現しました。又、非常用の井戸、芝生広場、身障者の方も安心して利用していただくための施設等整備されていますので、大切に扱いましょう。(港区役所)

園内に入ると、まずは自由に使える芝生広場で、日常的な遊びや休養などの利用は、ここを中心に使うことになります。

その広場を通り過ぎて園内を奥へ進むと、竪穴式住居を模した展示施設があります。

No.512 東山貝塚公園にあった展示施設とよく似ていますが、頂部の形が大きく異なっています。本公園のものは垂木が頂部で交差する形状、東山貝塚公園のものは小さな屋根が載った形状をしています。
素人見立てですが、東山貝塚公園のもののほうが時代が下がって技術向上が進んだ時期のもののように見えます。
本公園の竪穴式住居
No.512 東山貝塚公園の竪穴式住居

住居の中を覗いてみると、古代人の家族が暮らしていました。
●現地の解説板より「縄文人たちの生活」
握槌で木を削って道具を作る父親、食事の支度をする母親と少年、炉では貝がぐつぐつと煮えています。壁ぎわには、木の実が貯えられた土器や狩猟のための弓矢、床には石の鏃などがあります。木の実などの調理に使われた石皿と磨石、衣服にするためのシカ皮も見えます。
自然が与えてくれるさまざまな恵みを利用して、当時の人々の生活が成り立っていたことがわかります。

ちなみにこの展示建物の裏手が公園の一番隅っこで死角になりやすいため、事件・事故を防ぐためにカーブミラーのような曲面鏡が建てられていました。書店の万引き防止ミラーみたいです。

展示建物の横手には、貝塚の堆積物を剥ぎ取った標本が展示されていました。史跡ではよく見かける展示手法なのですが、屋外に展示してあるのは珍しいように思います。
日光で接着剤などが傷んでしまわないか心配ですが、見た限りでは大丈夫そうでした。色味はすっかり飛んでしまって白っぽくなっていますが。
●現地の解説板より
縄文時代の人びとは、高輪の台地の下に広がる海から多くの貝をとってきて食べました。貝ばかりでなく、魚やけものを食べたあとの骨や、家の中のごみ、こわれた土器や石器のかけら、炉からかき出した灰やもえさしの炭などもいっしょにすてられました。こうして貝塚ができあがったのです。ですから、貝塚を調べると、当時の人びとの食べていた食物の内容や、生活のありさまがよくわかります。
ここにある貝層は、伊皿子貝塚のなかで厚く貝がつもった部分を、接着剤で接合してはぎとり、保存したものです。黒くしまのように横に走っている層は木炭の層、ねずみ色になった貝は火で焼けて変色した貝です。カキばかりが集っている部分、アカガイに似たかたちをしているハイガイが集まっている所など、貝層はいろいろな部分からできています。さまざまな層が、何枚もかさなり合って堆積しているありさまは、縄文時代の人びとの日日の生活のつみかさねを無言で示してくれます。

冒頭の看板にも書いてあったように、この伊皿子貝塚遺跡では、名前になっている縄文時代の貝塚だけではなく、それ以前の時代や、その後の弥生時代や古墳時代、平安時代の遺物も見つかっており、長い時代に渡る複合遺跡だったことがわかっています。
ここまでに紹介した住居跡や貝層断面は縄文時代の遺跡ですので、その傍らには縄文時代の土偶が解説板を持って立っています。特徴的な顔立ちは、群馬県東吾妻町で見つかった通称・ハート型土偶です。
●現地の解説板より
山野にけものを追い、海辺に魚や貝を求めて縄文時代の人びとは日を送っていました。この時代の人びとはまだ米を作ることを知らず、自然が与えてくれるさまざまな恵みによって生活を支えていたのです。そんな暮らしが今から1万年くらい前から、米作りのはじまる2千年前までの8千年間もつづきました。人びとの力はまだよわく、自然の中で生きていくためには多くの人びとがお互いに協力する必要がありました。狩りをするのも、家をたてるのにも、村の多くの人びとの参加が必要でした。
ここに復元されている竪穴住居は、今から4千年前の縄文時代後期のもので、伊皿子貝塚の貝層の下から発見されました。地面を堀りくぼめたり、柱にするための木を伐るには、村の男が総出でかかったことでしょう。屋根をふいたり、床に小石をしきつめたりする作業もありました。この住居からは、当時の生活のありさまだけでなく、人びとがいかにたすけ合いながら生きてきたかを知ることができます。

では次の時代はと言うと、古墳時代を代表する埴輪が解説してくれます。こちらは超有名な踊る埴輪(埴輪 踊る人々)。現在の埼玉県熊谷市で見つかったものです。
●現地の解説板より
米を作りはじめてしばらくすると、人の上に立つ身分の高い貴族があらわれました。こうした貴族は多くの人びとを使って大きな塚(古墳)をつくり、死んだあとの墓にしました。そこでこの時代を古墳時代と呼びます。古墳時代は米作りのはじまった弥生時代につづく、今から1700年前から約300年あまりをいいます。その終わりごろには中国から仏教も伝わり、文化もおおいに進みました。しかし、当時の農民の多くは、ここにあるような縄文時代とはあまり変らない竪穴住居に住んでいました。
地面を掘りくぼめて床にしたり、壁がなく屋根と床がくっついている点などは縄文時代の住居とほとんど同じで、ちがうのはすみにあるかまどぐらいです。当時の貴族は今の神社のような建物に住んで、海をこえて中国から伝わった品物を身につけたりして文化的な生活を送っていましたが、農民の多くは古墳時代ばかりでなく、奈良時代、平安時代になっても、ここにある竪穴住居と同じものに住んでいたのです。

展示品は古墳時代の住居跡。縄文時代から比べて、かまどが増えた分だけ居住スペースが狭くなったようですね。便利なものが増えると家が狭くなるのは、今も昔も変わりません。

その後、ずっと時代が下がって、明治時代の遺物も残っています。
こちらの井戸は、もともと華頂宮邸の庭園にあったものをポンプ井戸として再整備したものだということです。
●現地の解説板より「井戸の由来」
この井戸は、明治、大正時代にこの地にあった華頂宮邸の庭園内に作られていたもので水面までの深さ約7.5m、水底までの深さ約12mです。
大正12年の関東大震災時には大変役立ちました。今日、当公園整備に際し震災、火災時の非常用井戸としてポンプを設置し整備し直したものであります。
この井戸を大切に扱いましょう。飲用は好ましくありません。

ここまでの流れからすれば、明治時代を代表する人形に解説板を掲げて欲しかったところですが、残念ながらそれは無し。井戸と庭園遺構らしき流れだけが残っています。

古墳時代の住居や井戸の裏手の方の少し奥まったところには、広場というよりは園地という方がしっくり来る芝生のスペースがあります。

その芝生スペースとはフェンスで隔てられた所には「たかなわしぜんかんさつえん」と名付けられたビオトープがあります。
出入り口には鍵のかかる門があるので、そういつもいつも入れる訳ではないのかも知れませんが、訪れた日は開いていたので入らせてもらいました。

ビオトープではありますが、まったくの自然任せというわけでもなさそうで、シバやシロツメクサなどの背の低い草は刈り取りが行われている雰囲気です。

そして園内を見て回り、入ってきた時とは違う出入り口から出ようと思ったところで気がついたのですが、この門と塀は、ここが邸宅だった時代の名残のようです。
こちらの調べが足りず、明治・大正の華頂宮邸時代のものなのか、それ以降の昭和のものなのかはわかりませんが、いずれにしても屋敷の正面玄関ではなく勝手口、掖門の類のものだろうと思います。

表に回ってみると、こんな感じ。塀を作り直している箇所もあって、何かしらの経緯がありそうです。

郵便受けもありました。

思いがけず色々なものに出会うことのできた三田台公園でした。

港区による公園紹介ページ

(2016年7月訪問)

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