No.364の尼崎城址公園で尼崎城の遺構が地上にはあまり残っていないことに触れましたが、地下にはちゃんと残っていて、本丸にあたる市立明城小学校と文化財収蔵庫(元・市立城内中学校)の敷地で阪神・淡路大震災後におこなわれた建て替え工事の際には、本丸御殿の礎石建物遺構が見つかったそうです。
で、その収蔵庫から細い道を挟んで北側にあるのが、三の丸公園です。ただ困ったことに、どの資料を見ても本丸の北側にあったのは二の丸だということになっています。
この矛盾の理由は資料不足でよくわからないのですが、さすがに二の丸と三の丸を間違えたというのは考えにくいので、公園の場所移転や区域変更がおこなわれた可能性もあります。また機会があれば確認してみたいと思います。
西側から公園内を眺めるとこんな感じ。
公園全体が後述する旧・尼崎警察署庁舎を取り囲むように折れ曲がった形状となっており、北西側が遊具広場、南東側が木陰で憩えるような園地となっています。
遊具広場には古い時期の遊具が残されています。
こちらはコンクリート製の土管。もう、あまり見なくなりました。
鉄パイプ製の遊具も筒状のもので、土管とともに、なにかとくぐり抜ける遊具が人気のようです。
こちらは尼崎市内で時々見かけるタコ。鉢巻きを締めた頭(というか胴?)だけで、足の部分はありません。生き埋めにされているようにも見え、思わず「フグでも食ったか!?」と声をかけたくなります。
タコのほかにも、カバ、ゾウ、カエルなどの仲間がいます。
南東側は木陰に多くのベンチが並び、しっとりした雰囲気になっています。
ところで、この公園は1926年(大正15年)に建てられた旧・尼崎警察署庁舎の裏手にあたります。こちらの設計は、大正~昭和初期にかけて大阪・神戸を拠点に活躍し、多くの官公庁や学校建物を手がけた置塩章。
警察署としては1970年(昭和45年)まで使用され、その後も市役所出張所や児童館などとなってきましたが、耐震強度が現在の基準に合わないため、今は公共用途に使えず空き家となっています。
これから利活用方策を考えていくべき建物だと思いますので、道向いの城内中学校跡地の利用やこの公園の再整備などもあわせて、城跡一帯が良い方向に向かうことを祈ります。
●尼崎市 Web版『図説 尼崎の歴史』より「尼崎城の発掘調査」
(2013年1月訪問)
【2025年3月追記】
近くに用事があったので、久しぶりに訪ねてみました。
とくに改修もされておらず、あまり変化のない園内で、タコ遊具が半分地面に沈んでいることも変わらず。
新しくなっているのは、注意書きの看板くらい。
でも、ここで気付きました。「公園名が、二の丸公園に変わっている!?」
本文中で触れたように、旧・尼崎城の本丸御殿の北側にあたるこの場所は、かつては城の二の丸だった一角なのですが、公園名はなぜか「三の丸公園」でした。
その理由として「50年くらい前の開園当初は、城趾についての研究が進んでいなかった」、あるいは「三の丸跡にあった公園がなにかの事情で移転したのか」などと考えてはいたのですが、市役所でも気になっていたのか、いつの間にか公園名が変わっています。
フェンスの後に隠れて、付け替えるにも一苦労ありそうな園名板も、きれいに「二の丸公園」に替わっています。
家に帰ってから調べてみると、2018年(平成30年)9月14日の告示で公園名称変更の都市計画変更がなされており、その理由は「当時の尼崎城の二の丸に位置している三の丸公園の名称を”二の丸公園”に変更する」という、理由とも言えない理由になっていました。
仕方がないので、この記事の見出しも更新したのですが、この埋まりタコについては、本ブログ内でいくつかリンクを張っているので、そこまでは更新しきれていない二の丸公園(旧・三の丸公園)でした。
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