横浜市の元町地区は、かつての外国人居留地ですが、その中でも谷地になっているこの一角は、湧水を使った船舶向けの給水事業や、瓦工場などとして使われていたそうです。
そんな土地を、横浜市が関東大震災からの復興事業の一環として都市公園にしたのが1930年(昭和5年)のことで、急な斜面地に居留地としての歴史と公園としての歴史、大震災の爪痕などが折り重なった公園となっており、日本の歴史公園100選にも選ばれています。
今回は、丘の上の「山手本通り」に面したところから下りていくのですが、通り沿いの公園外にも美しい洋館や教会が建ち並んでおり、洋館巡りの拠点でもあります。
公園内に含まれている洋館もいくつかあって、こちらの「エリスマン邸」もそのひとつ。
1926年(大正15年)に公園外に建てられ、平成になってからここに移築されたもので、現在は喫茶室や展示室として活用されています。
エリスマン邸を見ながら、左手の方へと下りていくと、そこにはレンガ造りの建物基礎が保存された場所に出ます。これは、明治時代に建てられ、関東大震災で崩壊し、昭和の終わりごろに調査・保存整備がされた山手80番館遺跡です。
■現地の解説板より「山手80番館遺跡」
この赤レンガの構造物は、関東大震災前の異人館遺跡で、震災当時はマクガワン夫妻の住居となっていたところです。この一帯は、かつての外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、学校、病院、劇場、教会などの西洋建築がたちならんで「異人館のまち」をつくっていましたが、今日なおその面影をそちこちに残しています。本遺跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大地震による被害状況を物語っています。現在、地下室部分を残すだけですが、浄化槽をも備え、古き良き横浜の居留外国人の華やかな暮らしぶりをうかがいしることができます。両わきのタイルは遺構から出土したものを複製しました。(昭和60年3月,横浜市緑政局,横浜開港資料館)
別の場所の園路際には、80番館までは保存整備段階が進んではいないのですが、こんなレンガの塊が展示されていました。数年前に台風で倒木が出た際に、その周りから出土したものだとか。
■現地の解説板より
令和元年10月15日の台風19号により樹木が倒れた際に、建物の基礎のような煉瓦の塊が出土しました。
(公財)横浜市ふるさと歴史財団で調査したところ、関東大震災で倒壊した西洋館の一部である可能性が高いことが分かりました。そのため、横浜市教育委員会生涯学習文化財課及び環境創造局南部公園緑地事務所都心部公園担当と協議の上、 現地保存することになりました。(令和2年1月,指定管理者横浜市緑の協会・横浜市弓道協会グループ)
つまり、今は林に覆われた公園の中に埋もれていますが、これくらいの緩斜面地には、そこそこの数の建物があったということですね。
谷上の方は住宅中心だったようですが、谷下の方ではフランス人アルフレッド・ジェラールさんが湧水を利用した船舶向けの給水事業や西洋瓦の製造をしており、これらの施設は「ジェラールの水屋敷」と呼ばれていました。
いまも地下にレンガ造りの貯水槽が保存されており、公園から少し離れたところには、見学施設も設けられています。
その頃と、出どころは同じ湧水を使った公園施設として整備されたのが元町公園プール。1930年(昭和5年)の建設当時は「横浜プール」と称され、夜間照明を備えた最先端の公認プールでしたが、湧水利用のために水温はとても冷たく、夜は大変だったそうです。
ジェラールさんは地下水を汲み上げて飲料水として販売していたので、周囲の住宅地から谷地へ雨水・泥水が流れ込まないように、境界部分に排水溝を作ります。それが今も残っていて、「ブラフ溝」と呼ばれています。
■現地の解説板より「ブラフ溝」
横浜山手は、山手本通りとワシン坂通りの尾根道を中心に展開し、居留外国人たちから「ブラフ」(切りたった崖を意味します)と呼ばれていました。この丘陵地の地形によって横浜山手にはいくつもの谷戸が存在しています。元町公園一帯もそういった谷戸のひとつで、かつてはフランス人ジェラールが西洋瓦を焼き、湧水を集めて船舶給水を行っていました。この石造側溝は、ジェラールの要望によって、明治7年から8年にかけて敷設された排水溝です。房州石を舟底型に組み合わせ、雨水が谷戸に流れこまないようにしたもので、洋風側溝としては現存最古のもののひとつです。同じ房州石で築かれたブラフ積石垣とともに、居留地時代の横浜山手をしのぶことのできる貴重な土木遺産といえましょう。(1986年3月 横浜市)
展示品だけではなくて、今も公園西側の階段坂沿いには現物らしきものが残っています。
階段は後に作り変えられていると思いますが、排水溝は150年前のままなのか、あるいは置き換えて再利用なのか。
ここで気づいたのが、ここって、テレビドラマ版の「岸辺露伴は動かない」で、露伴先生の自宅へ向かう坂道の撮影場所になっているところですね。
階段や石壁の素材に特徴があるので、歩いているうちに思い出しました。

そんな文化財もサブカルも入り混じった階段を下りていくと、公園最北端、標高で言えば最低部の広場に出ます。
元町プールの方から流れてくるせせらぎや噴水池などがあり、谷地形と水を活かした公園としての正面玄関に相応しい整備がなされています。
訪ねたのが2月の午前中だったので、池には薄氷が張っていました。市街地に近い場所なのですが、北向きの谷間なので夜は冷え込むようです。
このブロックの一角には、小さな遊具広場もあり、ここに「我国塗装発祥之地記念碑」が建てられています。
居留地ができ、外国人が建物を建てるようになれば、ペンキ塗装の需要が生まれるということで、江戸の渋塗職人(防腐のために柿渋を木材に塗る職人)・町田辰五郎が幕府に命じられて横浜に移り、苦心の末に洋風塗装術を身に着けたとか。
改めて、色々な歴史が交錯する面白さを味わった横浜の元町公園でした。
(2025年2月訪問)
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