かの剣豪・宮本武蔵が、晩年を熊本で過ごし、亡くなった後に葬られたという場所が武蔵塚。その周りを公園化したのが、現在の武蔵塚公園です。
ただし、「武蔵の墓」と伝わる場所は熊本県内外にいくつもあります。
彼が遺言で指定したという場所は、熊本城下から見れば北の外れ、参勤交代の行列が通る街道沿いです。その道は今も交通量が多いため、園内の静謐を守るために、外周部には少し分厚めの植栽帯と白壁とが設けられています。
ただ、その正面入口の目立つところに、真っ赤なシェアサイクルを並べるセンスはいただけません。公園にサイクルポートを設けることに反対はしませんが、もう少し美観というものを意識して欲しいと思います。
そんなことを思いながら、園内へ。まず石張りの広場があって、正面に林を背景にした銅像、左手に池が見えます。
当然ながら、銅像は宮本武蔵。
熊本にある島田美術館所蔵の肖像画に描かれている、力を抜いて、構えていないけれど構えている、有名な場面を表現していると思われます。
現地の解説板にも、件の肖像画が描かれています。顔以外の、姿勢や着物の裾のめくれ具合など、かなり参考にしていると思うのですが、どうでしょう。
でも、顔はあまり似ていないと思うのです。肖像画は、もう少し荒々しい表情をしていますよね。
銅像の周りには、解説板がいくつも立てられていますが、武蔵の生涯について触れた最重要の解説板には、「播磨国に生まれた」けど「美作生まれ説もある」と書かれています。
宮本武蔵の出身地には大きく2つの説があり、本人が『五輪書』に書いた「播磨生まれ」説が有力なのですが、若い頃に美作にいたとされることから「美作生まれ」説もあって、間を取って「播磨に生まれて美作に養子にいった」説もあります。
ただ、吉川英治の小説で出生地とされ、”生家跡”が県史跡になり、近くの駅を「宮本武蔵駅」にしてしまった美作の方が、アピール上手であることは間違いないでしょう。
玉垣に囲まれ、威勢のよい狛犬に守られているので、神社としての要素も持っています。
狛犬がいつ頃の作なのかわかりませんが、後ろの石灯籠には江戸前期の元号が刻まれています。
そして、ここで面白いのが、塚の周りに墓参に来た皆さんが建てた石碑がウジャウジャあるのです。例えば、こちらは大原町(美作)の墓参交流記念碑。
こちらは武蔵の幼馴染だった森岩彦兵衛の子孫が植えたという枇杷の木の植樹記念碑。若き日の武蔵が、故郷の美作を旅立つ時に、枇杷の木刀を彦兵衛に残したという伝承があるそうです。
その流れで、同じ旅立ちの時に、木刀を送った話とは別に「庭先のタラヨウの葉に、火箸で”南無阿弥陀仏”と書いて残した」という話もあるそうで、美作の方々が植樹したタラヨウの記念碑があります。
このように、熊本の解説板では異論とされた美作サイドの攻勢が目立つというか、やっぱりアピール上手だと言うべきか。
石碑ばかりを見ていると終わらなくなるので、少し戻って、石碑の横にあった庭園へ。
それほど大きなものではなく、木造の東屋の横に、小さな池があるくらいのものです。
この時は水が抜かれていましたが、庭園ですので眺めて楽しむ池です。
池から繋がるせせらぎには滔々と水が流れており、園内の半分くらいを占める斜面地を駆け下りていきます。水路は繋がっているけれど、循環ポンプの系統は分かれているのかも知れません。
斜面地部分は、せせらぎが九十九折に流れていき、それに沿うように園路を通して、ポイントには休憩所やベンチを置くという形になっています。
多少、傾いたり急だったりして不安定な園路ですが、歩くたびに景色が変わり、なかなか楽しいものです。
そんな細かいことはやめにして、斜面を一気に貫いてくる階段もあるので、せっかちな人はこちらを歩くとよいでしょう。
下りたところは、細長い木陰の広場。せせらぎも終わり、浅い池になります。
こちらの池は、子供がほどほどの浅さで、とくに推奨はされていませんでしたが、水遊び場として整備されたものと思われます。
斜面の上と下とで違う顔を見せる武蔵塚公園でした。
(2026年8月訪問)























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