4303/1000 神武山公園(兵庫県豊岡市)

2026/07/23

山の公園 城跡 身近な公園 兵庫県 豊岡市

豊岡市街地にある標高約49メートルの神武山(じんむさん)は、戦国~江戸時代初期の城跡であり、当時は山容から亀山などと呼ばれていたものが、明治初めに神武天皇遙拝所が置かれたことで神武山と呼ばれるようになったそうです。
その後、大正時代からは配水池やポンプ場などの水道施設が置かれてきたこの山を、昭和の中頃に約2.9haの都市公園としたのが神武山公園です。

現地の解説板などを繋ぎ合わせるとこうなるのですが、「遙拝所跡は残っていないのか」、「ポンプ場はいつまであったのか」など、公園ブログとしては気になることも多いのですが、調べがついていません。

上の写真は公園西麓の出入口ですが、今回は豊岡藩の陣屋があった北麓、現在の市立図書館の裏手から上っていきます。

いきなりの階段道。竹垣の向こう側は、豊岡藩主だった京極家の屋敷跡です。

しばらく上ると、京極高住(きょうごく・たかすみ)の碑が置かれた小園地に出ます。京極高住(1660-1730)は、丹後国田辺から移封されて豊岡藩主となった兄の後を継ぎ、豊岡藩主となった人だそうです。

こそ見めの 至りが浦や 所の春 (云奴子)
延宝7年(1679) 二見連歌会の発句

もうしばらく上ると、配水池跡。現在はその役割を終えており、2020年度(令和2年度)に、土木学会の「土木遺産」に認定されました。

いまも構造物・建築物が残っており、解説板こそ設けられていますが、とくに手入れをされるでもなく草茫々なので、今後の管理は市の宿題かな、と思います。

■現地の解説板より「神武山配水池」

この神武山配水池は、大正10年に築造され、平成18年までの85年間という長きに亘り使われていた、旧豊岡市で最も古い配水池です。
明治の終わり頃、豊岡町では、飲み水が非常に不衛生な状況であり、上水道の敷設は緊要の課題となっていました。当時の豊岡町長は、二見水源(城崎町上山)から配水管を敷設する水道工事を計画しましたが、多額の費用が必要であることから、大阪で鉱山王として成功されていた、豊岡町出身の中江種造翁に協力依頼をしたところ、工事費の全額 (当時の金額で38万5千円)を寄付していただき、兵庫県で四番目、旧豊岡市で初めての水道ができました。
この中江種造翁に感謝して、寿公園内に銅像が建てられ、顕彰のため、上水道の竣工日(大正11年)である5月11日には、毎年「水道まつり」を行っており、この配水池も水道遺産として保存しています。

ここで高住の歌碑に続いて、また城崎町の二見(ふたみ)という地名が出てきました。調べてみると、市街地からは円山川に沿って約5km下流、景勝地として知られる玄武洞の対岸あたりのようです。
場所がわかると、また次の疑問が湧いてきます。「5kmも下流の水源池から、この山の上にある配水池まで、いったいどうやって水を引いたの?」ということです。普通、水道水は自然流下(サイホン含む)で流すので、二見水源はかなり高い場所にあるのでしょうか。

と思いつつ、帰ってから調べてみると、さすがは選奨土木遺産。豊岡市から『創設100年記念 とよおかの水道』という詳しい冊子が出ており、そこに当時の水源から市街地までの送水管図が断面付きで掲載されていました。
これによると、やはり水源池は二見地区でもやや標高がやや高い位置にあり、ここから市街地のまで管路を引いて水を自然流下させた後に、ポンプで神武山配水池に圧送し、改めて市内各地へ落としているようです。

豊岡市(2022)『創設100年記念 とよおかの水道』より

さらに進んで、山頂の広場までやってきました。お城だった頃に照らせば、いわゆる本丸跡です。

いまはサクラやツツジなどの花木が多く植えられた小広場になっており、山道を上ってきたことに見合う爽快感があります。

■現地の解説板より「豊岡城」

神武山(標高49m)の名は、明治5年(1873)の神武天皇遙拝所設置によるが、山容から亀城・亀山、城の所在から城山とも呼ばれる。
伝承では、15世紀中ごろ、九日市に守護所を置く但馬守護山名宗全がこの山に築城、被官垣屋氏に守らせたという。戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城(当時は城崎城と呼んだ)は但馬支配の中心拠点となった。
天正8年(1580)、羽柴勢の但馬占領によって旗下宮部善祥房が入城、木下助兵衛尉、明石与四郎、福原右馬之助と続き慶長2年 (1597)杉原長房に至った。
承応2年(1653)、杉原家断絶により城は破却されたと見られるが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残された。
寛文8年(1668)、京極氏代に入ると、城山は城郭遺構を保持したまま陣屋及び城下町の象徴となった。
豊岡城こそは、豊岡市の中世・近世における歴史的原点である。

ただ、山城あるあるで、広場外周の斜面地はすっかり林になっており、周囲への眺望が開けないのはいつものこと。
北向きのすぐ山下あたりには元・城下町があるのですが、まったく見ることができず、なんとか遠くの方の山並みが見えるくらいです。

肉眼では今ひとつどこが見えているのかわからず、カメラの望遠を効かせて初めて、1km以上離れた円山川に架かる鉄橋が見えていることに気づきました。

南向きの方角は視界が開けていて、真下にある豊岡高校もよく見えました。もう少し左向き(東向き)が開けていれば、伊勢神宮の遥拝にも使えるのですが。

途中の解説板や市の資料には載っていなかった「消防サイレン塔跡」碑というものもありました。
きっと昔はそういう施設が建っていて、火事の時はもちろん、お昼や夕方にもサイレンを鳴らしていたのでしょう。

そこから西へ進み、一段下がった所の広場に出ました。頂上にあった解説板に照らせば、「笠の丸」に下りてきたのだろうと思います。
平坦地を芝張りにして、ベンチなどを置いていますが、植えられたサクラはまだ小さいので、このような形に整備されてから、まだあまり年月が経っていないように思われます。

古い航空写真で確認すると、ここにも水道施設のようなものが建っているので、それの撤去後に、今のような形で復元整備されたのではないかと考えています。

ここから西へ下りていくと、1枚目の写真の出入口に戻る神武山公園でした。

(2026年5月訪問)

ブログ内検索 Search

都道府県別 index

アーカイブ Archive

地図 Map

問い合わせ Contact

名前

メール *

メッセージ *

QooQ