絶江児童遊園(ぜっこうじどうゆうえん)は、麻布・三田・白金の境界に当たる古川橋交差点から少し西北に入ったところにある小さな遊び場です。
すぐ隣にある曹渓寺が承応2年(1654)に赤坂から移転してきたのですが、この時の和尚さん・絶江が名僧だったために、付近の地名の由来となったそうです。
資料によれば、面積は約180平米。小さいことは間違いないのですが、車通りの少ない道やお寺に面していて静かなので、意外に落ち着く空間です。
幼児用の滑り台は、「穴の空いたリンゴからイモムシが出てきている」デザイン。言葉にすると気持ち悪いのですが、実際に見るとそんな事はありません。
ブランコは、サボテン型もしくはツリー型と呼んでいるタイプ。一本足なので狭い場所でも設置しやすいところが売り物です。
この一本足ブランコの裏側の目立たないところに、「肢体不自由教育発祥の地」碑がありました。
でも解説板の見出しは「東京都立光明養護学校発祥の地」となっており、解説が一足飛びです。
■現地の解説板より「東京都立光明養護学校 発祥の地」
港区南麻布2丁目9番25号学制公布後、わが国の児童の就学率は上昇してきましたが、肢体不自由児の教育は取り残されてきました。昭和6年(1931年)東京市教育局は市内15区の学齢児を調査して、1,200名の肢体不自由児の三分の一が未就学児であることを見出しました。そこで、当時就学免除の対象と考えられていた肢体不自由児のために、小学校に類する各種学校(「小学校令」第17条)として、昭和7年(1932年)6月1日、東京市光明小学校を麻布区本村町203番地に創設しました。光明の名は、東京市長永田秀次郎によって命名され、わが国最初の肢体不自由児学級となりました。開設当時は、1年から6年まで6学級90名の児童が学び、各学級で学習指導を行う教員のほかに看護婦が配置され、マッサージなどの治療を行いました。また、普通教科の他に生活科や職業科なども設け、養護と訓練を徹底的に行いました。児童のもつ才能を存分に伸ばす教育は、現在の肢体不自由児養育の基礎となっています。昭和14年(1939年)9月、世田谷区松原に新校舎が落成移転し、当地には麻布分校が残りましたが、同20年(1945年)戦災により消失しました。その後、東京都立光明養護学校と改称し、小学部、中学部、高等部を世田谷区松原に設置し、現在に至っています。(平成19年3月 港区教育委員会)
これとは別に、曹渓寺の塀の横には「学校法人麻布獣医学園 発祥の地」碑もありました。
これらを読むと、もともとは曹渓寺の境内地がもっと広く、学校なども建てられる規模だった様子がうかがえます。
■現地の解説板より「学校法人麻布獣医学園 発祥の地」
港区南麻布2丁目9番学校法人麻布獣医学園麻布大学の前身は、明治23年(1890年)9月10日、東京獣医講習所として、帝国大学農科大学助教授與倉東隆によって開設されました。東京市麻布区本村町204(日東山曹渓寺境内)にできた私立慈育小学校の一部を借りて校舎とし、全国から選抜推薦された獣医師に6か月間、解剖、生理、薬物、内科、外科、装蹄、病院実習、装蹄実習を教授しました。明治27年(1894年)1月に麻布獣医学校と改称し、同28年(1895年)10月には、與倉東隆がすでに開設していた東京家畜病院がある麻布区新堀町に校舎を新築移転しました。その後、明治45年(1912年)3月に、麻布獣医家畜学校、昭和9年(1934年)4月に麻布獣医専門学校、同19年(1944年)12月に麻布獣医畜産専門学校と改称しました。昭和20年(1945年)5月、戦災により学園諸施設を消失したため、神奈川県相模原市に移転し、同25年(1950年)に光明を麻布獣医科大学として開学し、昭和55年(1980年)麻布大学と改称し、現在に至っています。(平成19年3月 港区教育委員会)
小さな遊び場の割には、記録することが多い絶江児童遊園でした。
(2025年12月訪問)








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