さて、キリンビールには「スプリングバレー」という商品がありますが、そのスプリングバレーがこの公園がある谷地の古名ですので、いわゆる「キリンビール発祥の地」にあたります。
同社のブランドサイトでは、この地のことを、次のように表現しています。
1870年、横浜で生まれたスプリングバレー・ブルワリー
1870年、ウィリアム・コープランドという一人のノルウェー出身のアメリカ人が故郷から遠く離れた横浜の地で立ち上げた「スプリングバレー・ブルワリー」。
美しい水が湧きあがる泉の谷につくられたこのブルワリーは、日本のビール産業の礎となりました。
そんな発祥の地に、大きな石碑が建てられた公園があり、その名も「キリン園」と言います。
記念碑は台座を含めれば5メートルくらいある巨大なもので、そこにびっしりと碑文が刻まれているので、とても現地では読みきれません。横に建てられた解説板が、ありがたい限りです。
解説板によれば、石碑が建てられたのは1937年(昭和12年)とありますが、公園としての開園もその年で、『日本公園百年史』には、キリンビールから約1,000平米の土地の寄付を受けたことが記されています。
ということは、キリンビールはこの大きな石碑を建てた上で、その前庭に当たる土地を公園として横浜市に寄付した格好かと理解します。
■現地の解説板より「麒麟麦酒開源記念碑」
1870(明治3)年、アメリカ人ウィリアム・コープランドは横浜・山手にビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを設立し、日本で初めて産業として継続的にビールの醸造・販売を行いました。コープランドはこの功績から「日本のビール産業の祖」と呼ばれています。1885(明治18)年、スプリング・バレー・ブルワリーの建物と土地は、日本在住の外国人経営の会社ジャパン・ブルワリーに引き継がれ、1808(明治21)年に「キリンビール」 が発売されました。そして、1907(明治40)年、ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぎ麒麟麦酒株式会社が創立。1923(大正12)年の関東大震災まで、この地においてビールを醸造しました。石碑はこの地がキリンビール発祥の地であることを記念して、1937(昭和12)年に建立されたものです。※石碑建立当時は、スプリング・バレー・ブルワリーの設立は1872(明治5)年とされていましたが、その後の調査で1870(明治3)年であることが判明しました。
ちなみに、石碑建立から90年ほど経過し、その後の様々な調査が進んだこともあり、いまのキリンビールのHP内「キリン歴史ミュージアム」には、もう一つ古いビール醸造所のことも記されています。
”1869年(明治2年) 横浜山手46番地に日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」開設”
”1870年(明治3年) ウィリアム・コープランドが、横浜山手123番地にスプリングバレー・ブルワリーを開設、同社製のビールが横浜に出回る”
こんなレンガ造りの何かも、スプリングバレー・ブルワリー跡から出土したものだそうです。
公園面積は今も変わらず約1,000平米。
滑り台やブランコが置かれて児童公園っぽくなっていますが、開源記念碑を見上げるための空間構成は受け継がれています。
背景に見えているように、周りには学校も多いので、児童公園タイプのニーズも高く、徐々に遊び場としての要素が入ってきたのでしょう。
また、本来であれば正門にあたり、正面に開源記念碑が見えるはずの出入口は、後から改造されて植栽が入れられ、塞がれてしまっています。
こちら側の道路が歩道のない狭い坂道で、子供が出入りすると危ないからでしょう。
ここに刻まれた園名は「麒麟園」。こちらが本来の施設名称です。
ちなみに、横浜市の資料では「キリン園」と「キリン園公園」とが混在しているのですが、新しいものは「キリン園」になっている気がするので、わりと最近に本来名称に近づけるような公式改称がされたのかも知れません。
園内にはもうひとつ、1962年(昭和37年)に建てられた「文化遺跡日本最初の麦酒工場」の碑もあります。裏面には”昭和37年1月11日 W・コープランド氏の命日に建てる 横浜ペンクラブ”と刻まれていますので、上の開源記念碑から25年後に横浜の文化人の皆さんが建てたことになります。
以前にNo.2729 神ノ木公園に行った時にも思いましたが、酒好きの人は、石碑を増やしたがる傾向があるのでしょうか。
公園眼の前の自販機は、サントリーに取られてしまっているキリン園公園でした。
(2025年2月訪問)
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