4042/1000 蒔田の森公園(横浜市南区)

2025/09/12

横浜市南区 神奈川県 身近な公園

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蒔田(まいた)の森公園は、平成の中頃に市民の方から寄付された屋敷地を整備したもので、里山を背景にした旧家の風情を残した公園になっています。

■現地の解説板より「蒔田の森公園」

平成9年、森正勝氏から、庭園、林等、約7,000平米の土地を横浜市に寄付されました。横浜市では、この貴重な緑を保全して次世代に残すため蒔田の森公園として整備しました。

《蒔田の歴史》
戦国時代、武蔵世田谷(東京都世田谷区) 一体を支配していた足利氏の流れを持つ豪族、吉良氏が蒔田に移り住んだことが、蒔田城の始まりです。蒔田の城は「蒔田御所」、「蒔田殿」などと呼ばれていました。
蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学園校地で、城の形状は、天守閣や石垣のある近世城郭ではなく、土塁や空壕をめぐらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものです。本丸は学園の礼拝堂の辺りで、その南に天守台があったとされています。
当時この蒔田の森公園一帯は、蒔田城のための馬場があったといわれ、「馬場の森」(ばんばのもり)、「馬場谷」(ばばやつ)と呼ばれていました。
第二次大戦時には、湧水の豊富な敷地南側の山の中腹にある防空壕に、空襲を避けて、家を失った多くの人が生活していました。
また、戦後には、庭に遊具などを設置して開放され、近所の子供たちに「森児童公園」と呼ばれて親しまれていました。(平成12年3月 横浜市緑政局)

現状での公園敷地は、旧・鎌倉街道に面した北向きの緩斜面地を使った「ばんば広場」と「だるま広場」を中心とする一角で、寄付されたという7,000平米には、かなり足りません。

ですので、この山の斜面地部分も寄付された用地に含まれていると思うのですが、現在は、いちおう園路が通じているものの、普段は閉じられています。

でも園内のせせらぎの水は、この斜面の中から流れ出てくるようなので、この公園を形作るために不可欠の存在だと言えます。

流れに沿う山側の小広場は「ばんばひろば」。山に近く日陰になりやすいので、少しだけ気温が低いように感じます。

こちらは出入口に近い側の「だるま広場」。平面図で見れば確かにだるまさんの形をしていますが、現場に立つとよくわかりません。

その間を小川が流れて、この池に注ぎ込みます。
訪ねたのが2月の寒い朝だったので、池には薄氷が張っていました。

池のそばには、東側に抜ける小さな出入口があります。
現地の解説板によれば、鎌倉時代には屋敷の表門だったとか。とても古い時代の記録が残っていたものです。

■現地の解説板より「辰巳の門」

この場所には、鎌倉時代には、森家の表門 「辰巳の門」が設置されていました。(辰巳とは南東の方位のことです)
門は、4本の柱とかやぶき屋根で構成され、 間口約2.8m、奥行き約1.5mで、馬に乗ったまま通れる高い門だったそうです。
昭和20年5月29日に第二次世界大戦の戦火で焼失してしまい、礎石だけが残っています。
写真は昭和初年、屋根の吹き替え完成時に撮影されたものです。

これが門礎石ですね。立派な四脚門だったことがうかがわれます。

文化財的な要素と里山的な要素を少しずつ持ちつつも、大枠では住宅地の中の静かで落ち着ける場所として親しまれているであろう蒔田の森公園でした。

(2025年2月訪問)

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