杉並区にある松庵梅林(しょうあん・うめばやし)公園は、江戸時代の農地の区割りを残す、南北に細長い形をした小公園です。
令和に入る頃まで、実際に農地(梅林)として使われていたそうで、そのあたりの詳しい話がしっかりと書かれた解説板が建てられています。
■現地の解説板より「短冊状の敷地と松庵梅林公園」
この地域は江戸時代、松庵新田や松庵村と呼ばれた地域です。かつては茅の生えた原野で、幕府御用の茅刈り場でしたが、江戸の大火で茅葺屋根が禁止され、茅刈り場が不要となったため、寛文年間(1661~1672年)以降に開村されたといわれています。松庵村は五日市街道に接し、道路の両側を間口 20間(36m)、奥行き250間(450m)の短冊形に地割されました。その1区画は、「1のぼり」と呼ばれ、名主には2のぼり、開拓農民には1のぼりが与えられました。1のぼりのうち、道路側8間分に居を構え、その奥を畑、さらに奥を薪炭林にさせ、街道から他人の土地に入らずに畑に行けるようにしました。文化・文政期(1803~1829 年)には、13戸であったと伝わります。公園が短冊状になっているのは、当時の地割の名残となっています。この公園ができる前は梅林が広がる生産緑地でした。所有者の方のご厚意により公園として整備する運びとなり、令和4年に松庵梅林公園として開園しました。
改めて、冒頭の写真をもう一度。
解説板にある五日市街道からは60間(108m)くらい離れていますので、居を構えた範囲は飛び越えて、畑として使われた範囲なのだろうと思います。ちなみにNo.3994 松庵公園は同じ“のぼり”の範囲に入っており、街道からの距離は240間(432m)くらいなので、薪炭林の終端にあたります。
また、公園の幅を図測してみると、幅20間(36m)には少し足りない33mだったのですが、東横の道路幅が3mなので、辻褄が合ってきます。
近年は梅林として使われていたということなので、園内の植栽にも各種のウメが使われています。
ちなみに、梅の木の奥、フェンスの向こうにチラっと見えているお隣の土地は、今も現役の農地なので、公園と並んで見比べることで、「短冊状の地割」がより一層体感できます
さて、改めて園内。
現在は混み合った住宅地が続く松庵地区では稀な広さのオープンスペースであり、隣には小学校や児童館などの公共施設もあるという立地から、防災重視で広場を中心とした整備になっています。
公園施設も防災機能を取り入れたものが多く導入されています。
例えば、テント状の壁代わりのものを取り付ければ建物代わりに使えるパーゴラ、その下には防災器具をしまっておける兼用ベンチ、
座板を外せば竈になるベンチやスツールもたくさん設置されています。
一方、遊具のある公園は周りにも多いためか、遊具・健康器具が数点ずつとなっています。
でも、この“壁登り”などは大人向けの健康器具として設置されていますが、子供がしがみついても危なくないので、なかなか良い選び方だと思います。
この平行棒とぶら下がり器等が複合したものも、大人が使うよりも、小学生がよじ登ることのほうが多いのではないかと思います。
こちらは子供向けのトランポリン遊具なのですが、しっかりとネットが張られているので、少しくらいなら大人が使っても大丈夫なように見えます。
もっとも、子供と取り合いにならないように、日が暮れた後に大人が一人でやってきて、ここでピョンピョンと跳びはねるのは、ちょっと度胸が必要かも知れません。
完全に子供向けなのは、こちらの揺れる動物遊具。杉並区の公式キャラクターである“なみすけ”と“ナミー”です。
出身はスギナミザウルス島で、いまは杉並区に住んでいます。そして、恐竜ではなく妖精の兄妹。設定が少々ややこしく感じますが、子供たちはそんなことは気にせずに仲良く遊んでいることでしょう。
地域の歴史を伝えつつ、日々の遊びや防災にも気を使った松庵梅林公園でした。
なみすけ、
ナミー
なみすけの妹
頭に花をつけている
お兄ちゃんが大好き
なみきおじさんは不在
(2024年10月訪問)
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