3971/1000 白老アイヌ民族記念広場(北海道白老町)

2025/06/21

偉人像 石碑めぐり 白老町 北海道

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北海道白老町は、江戸時代後期から和人とアイヌとの交易所が設けられていたことなどからアイヌのコタン(村)が発達した地域だそうです。しかし、明治時代になると、政府による植民や農地開拓、同化政策などによってアイヌの生活は変化し、困窮する人も多くなります。

そんな時代に、アイヌ向けに建てられた小学校や病院があった場所が、今は町条例に基づく"白老アイヌ民族記念広場"になっています。

こちらが、広場のシンボルでもあるアイヌ碑。

■碑文より

その昔、私たちアイヌの先祖は、悠久の歴史をこの北海道シラウオイ(白老)の大地に刻んできた。
そして、自然への畏敬と恵みに感謝し、アイヌの生命を自然にゆだね、独自の精神文化や世界観などを育んできた。
しかし、明治期以降の開拓の進展や同化対策などに伴い生活環境は大きく変化し、生活の不安と苦渋は筆舌に尽くし難いものがあったが、私たちの先祖は、風俗習慣を異にしながら和人に多くの支援と利便を供与し、アイヌ民族としての復権を図るべく共に力を尽くした。
この地はアイヌの子弟が教育を受けた白老第二小学校があった地であり、また、コタンのシュバイツァーとして地域住民に献身的な医療活動をささげられた故高橋房次先生の病院跡地であり、アイヌ民族にとってゆかりの地でもある。
ここに先祖の意志に報い、今日の白老の繁栄と基盤を作り上げた先人アイヌの幾多の労苦と偉業を讃え、関係者の意志によってこの碑を建立する。(2005年8月10日 白老アイヌ碑建立実行委員会)

碑文にも出てきますが、かつて「教育や医療を通じてアイヌの生活を向上させる」ことは、「アイヌの文化や生活習慣を喪失させる」側面が強かったことも事実です。一方で、そのために設けられた学校や病院で働く人の中には、徳に優れ、アイヌの皆さんに愛された人も少なからず居たようです。その一人が、高橋房次医師です。

町の資料によれば、青森出身の高橋医師は、アイヌの医療事情の悪さを聞いて、その改善のために1915年(大正4年)に北海道へ移住し、はじめは新冠村で勤めた後、1922年(大正11年)、40歳の時に白老町に新設された旧土人病院の院長として迎えられます。そして、旧土人保護法の改正によって病院が閉鎖された後も、そのまま病院を引き継ぎ、1960年(昭和35年)に79歳で亡くなるまで、地域、アイヌの皆さんに愛された人物だということです。

■北海道庁立白老病院(高橋医院跡地)

この跡地は、旧土人保護法による保健の目的で、北海道庁が大正11年、道費5,500円をもって白老村に白老病院を建設(同年3月7日開院)し、高橋房次先生が初代の院長(昭和13年から高橋医院として引継き、昭和35年に逝去されるまで医療)となって、大正から昭和にかけて献身的に地域医療活動を生涯まで捧げたゆかりの地てある。
病院は総建坪63坪(207.9m)、診療室兼薬局、治療室兼看護室、応接室各1、病室2(ベット数6)かあり、院長住宅が付属し、共同浴場を併設していた。当時の新聞記事によると、開院から5ヶ月間で、外来4,386人、入院264人となることが報じられている(新白老町史より)

アイヌ碑と髙橋医師の顕彰碑、病院跡地の記念碑と、一部内容を重複させながら語る記念物が3つ並んでいます。

これら3点の記念物を除けば、あとはまさしく広場で、平坦な草敷きのスペースが続いています。

ところどころに、雪にも強い石造りのテーブル&スツールが置かれています。
テーブルの角のところに、重みに耐える支え棒が入っているところが、いかにも北海道ですが、じつは白老町は北海道の中でも雪が少ない地域で、気象庁データで見ると、過去30年の平均最深積雪が25センチとなっています。

時にはアイヌ関連の行事も行なわれるのであろう、白老アイヌ民族記念広場でした。

(2024年10月訪問)

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