西川東公園は、No.3906 西川公園から、東へ300メートルほど離れたところにある小公園です。
神崎川を渡れば大阪市という橋詰にあるのですが、川の堤防がとても高いため、園内にいると川の気配はまったく感じられません。
堤防側のそそり立つ壁の雰囲気を和らげるためか、公園のサイズには不似合いなほどの立派な壁泉も設けられています。
園内は東側で堤防、西側は道路を挟んで住宅地に接しており、ほぼ全体が「木立に囲まれた遊び場」といった整備内容になっています。
訪ねた時は子供が何人も遊んでいたので、写真はこの1枚だけ。遊具としては、タイヤブランコが付いた複合遊具、幼児向けの機関車遊具、揺れる動物遊具、砂場などがあります。
園内の写真が少ないので、南端で道に面して祀られているお地蔵様の写真を掲載。たぶん敷地は公園区域外だと思います。
玉垣には「神崎川一心地蔵尊」と刻まれ、赤い帽子を被ったお地蔵様の立像と、小さなお堂の中にはお地蔵様の坐像。
真ん中に石碑があるので、てっきりお地蔵様の由来だと思ったら、ぜんぜん違う話が刻まれていました。
■石碑より
足利高氏 建武中興の恩賞に不平 反逆して鎌倉に走る
新田義貞 後醍醐天皇より追討の命を受ける かえって高氏の反撃に遭い京都へ敗走する
京の都で再び激戦 今度は高氏軍が敗走する
高氏軍 山陰丹波の地へ迂回 兵庫に陣を占める
新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる
楠正成軍 遅ればせながら参加 神崎の辺りから神出鬼没
一心をこめた戦法で圧勝 高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる
世にこれを神崎一心の戦という
足利尊氏が九州へ落ち延びるきっかけとなった合戦は、太平記では建武3年(1336年)の「豊島河原(てしまがわら)合戦」と呼ばれ、ここから9kmほど北に離れた箕面市瀬川(阪急・石橋阪大前駅付近)が主戦場だったとされますが、兵庫から京に向けて西国街道を北上していった足利軍が、瀬川あたりで新田軍と衝突している時に、迂回して南から、つまり足利軍の背後から虚を突いた楠軍が、この公園付近で活躍したという故事の解説です。
できれば、「その合戦の死者を弔うために地蔵が祀られた」とか「いつしかこの地が”一心”と呼ばれるようになり、地蔵も一心地蔵と言われた」などの逸話があればなお良かったのですが、無いものは仕方がありません。
そしてお地蔵様が2体ならんでいるのには、なにか理由があるのでしょうか。
No.3261 小浜首地蔵のように、祠の中が初代、外に建つのが二代目とか、なにかいわれがあるのでしょうか。
公園の外の話のほうが多くなってしまった西川東公園でした。
(2024年10月訪問)
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