3686/1000 二条公園(京都市上京区)

2024/07/16

京都市上京区 京都府 公園地蔵 山遊具 社寺御嶽 身近な公園

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二条公園は、江戸時代には徳川家の城、明治時代からは皇室の離宮として使われていた二条城のすぐ北にある公園です。
そんな場所なので、平安京が開かれた時代には大内裏、江戸時代には京都所司代、明治から大正にかけては監獄(京都刑務所)があった用地の一部ですが、昭和初期からは公園になっています。

上写真の出入口から振り返ると、これくらいの距離感で二条城のお堀や石垣が見えます。

京都なので街のどこを掘っても色々出てくるわけですが、歴史的に著名な建物がこれだけ重なっていると、とりわけ詳しい解説板が建てられています。
位置関係のイラストや、発掘時の遺構の写真などもあって、わかりやすくて良い解説板です。

■二条公園に眠る遺跡-平安京跡・京都所司代跡

現在の二条公園のある場所は、今から約1,200年前の平安時代、政治の中心であり、天皇の住まいでもあった平安宮の一角でした。平安宮の中には、様々な役所が集中していましたが、この場所には太政官と宮内省がありました。太政官は行政の最高機関で、他のほとんどの役所をその管轄下におきました。また、平安宮の中心施設である大極殿の代わりとしても使われ、平安時代後期から末期の後三条天皇や後烏羽天皇は、本来大極殿でおこなう即位式をこの太政官でおこなっています。宮内省は天皇や皇族の衣食住のほとんどを担当した役所です。平安時代、二条公園を含む一帯には、特に重要な役所がおかれていました。
平成14年に二条公園の中で実施した発掘調査では、宮内省の西側を区切る築地塀(土を積み重ねて作った)の痕跡を確認し、平安時代前期(約1.200年前)の土器や瓦が出土しました。
江戸時代の二条城の周りには、西日本の政治をおこなうために江戸幕府が任命した京都所司代の屋敷が造られました。二条城の北側に上屋敷、中屋敷、下屋敷の3つの屋敷が設置され、所司代は上屋敷に住み、役所としてもこの上屋敷が使われました。二条公園は下屋敷が置かれた場所の一部に当たります。下屋敷は千本通に面していたため、千本屋敷とも呼ばれていました。この下屋敷には、所司代の家臣や所司代付の足軽の家族が暮らしていました。その大きさは二条城よりもひとまわり小さいとはいえ広大であり、多くの武士がいたことが推測できます。昭和56年に二条公園内でおこなった発掘調査では、江戸時代の幅4.5mの跡が見つかっており、この下屋敷に関連する可能性があります。
二条公園の場所は、平安時代にも、江戸時代にも政治の中心地であり、現在でも地中にはその遺構が残されています。

でも、それならば史跡公園として復元建物や遺構展示などがあるかと思いきや、ここもさすがは京都。いちいち史跡公園にしていたらキリがありませんから、これだけあっても、園地・遊び場中心の一般的な公園として整備されています。

敷地は南北に長い長方形をしており。それが北・中・南×東・西で大きく6つのブロックにゆるやかに分かれています。そして、西側3ブロックは園地、東側3ブロックは遊び場になっており、非常に理詰めで考えられた空間構成だと言えます。
まず、冒頭の出入口から入ったところが西南の小広場。土敷きでとくに施設はなく、なんにでも自由に使えるスペースです。

広場から北へ進むと、西中のブロック。和風な東屋やトイレ、池などがあり、季節になれば花や紅葉を眺めながら憩うことができます。

東屋から北に向かって池を渡ると、流れに沿って細い散策路があり、築山の向こうの西北ブロックに行くことができます。

西北ブロックは、「鵺池」という伝承地を園内に取り込んだ形になっています。
現在は、池というよりは流れなのですが、馬蹄形をした流れで半島を囲むことで、池っぽく仕上げています。下写真では、冬場なので水の流れを抑え気味ですが、手前の井桁のところから水が流れ出し、先ほどの東屋の横の方まで流れていきます。

囲まれた島の部分に建つのが、江戸時代に京都所司代を務めた松平信庸(まつだいら・のぶつね)が建てさせたという鵺塚碑。赴任して京都にきてみたら、役宅内に鵺池が残されていたので、「これは大事にせねば」と思って碑を建てたそうです。
そう言えば、No.1384 亀塚公園でも、似たような話を聞きました。

その後、昭和初期からこの場所は公園になるのですが、池は浅い水溜まりのようなものとして整備され、それも時代とともに水が枯れて、碑だけが残っている状況だったようです。これが平成時代の公園再整備の際に、いまのような修景にも優れた形になります。

■現地の解説板より「鵺池伝説(説明)」

二条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、そこには新しく復元された碑が建っています。
平安時代、二条公園を含む付近一帯は、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。
『平家物語』巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落した怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺(鵼とも書く)であったといい、そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
この度の再整備において池・流れ施設を整備し、鵺池碑を移設しました。

解説板に登場する鵺大明神は、公園北側の道路に面したところにあり、手前に見えるお地蔵様と並んで、奥に小さな社殿が建てられています。

祠の傍らに1936年(昭和11年)3月建立の石碑があり、碑文には「古くからの鵺退治の伝説のある池があり、池の畔に碑がある。徳川の世になり、京都所司代の屋敷内に取り込まれてしまったので、名所案内などには載っていない。明治になって京都監獄が置かれたが、碑は大事に保存された。だが風雨に打たれて文字はしだいに削れて読めなくなった。監獄が移転した後に、昭和9年に二条公園が設けられたが、その頃には碑文はほぼ読めなくなっており、心ある人は残念に思っていた。ところが、元看守長の青山咸懐氏が在職中に原文を書き留めていた。これをかすかに残る碑文と突き合わせると、書かれていることがわかるようになった。そこで出水学区の有志が相談して、新しい碑を建てて碑文を刻み直し、後世に伝えるものである」といったことが漢文で刻まれています。

平安時代に起こったとされるできごとの伝承が、江戸時代の文化人であるお殿様によって碑として可視化され、それを明治の人が書き留めてあったことで、昭和に碑が再建され、平成に池という空間までも再現されたことで、令和の私たちが今見ている姿になる。
けっこう壮大なストーリーが、ここにあるように感じます。

ちなみに、退治された鵺の遺骸はウツボ舟に乗せて流され、No.2190 芦屋公園のあたりに流れ着いたという伝承も残っています。

さて、ここから北へ動き、東北ブロックの遊具広場に向かいます。
メイン遊具は、丸い山を2つくっつけたような石の山遊具。

斜面全体に玉石が貼られた姿は、古墳のようでもあります。

すぐ横にはパーゴラや砂場、揺れる動物遊具などがあって、幼児向けの遊び場として構成されています。

そのまま南へ下がると、ロープピラミッドやブランコがある東中ブロック。

ピラミッドの横には車椅子などに座っても作業がしやすい、少し高さがある花壇・レイズドベッドが置かれています。真冬だったので、なにも植えられていませんが。

そして最後に、東南の小広場。ここには赤と黄色の色彩が鮮やかな、軽くアスレチック要素の入った遊具が置かれています。

雲梯、平均台、鉄棒、ターザン的ぶら下がり遊具などが繋がっており、頑張れば、端から端まで地面に足を付けずに渡り切る事ができます。

このパーツは、本当はそういう遊び方ではなくて、シーソーとして斜め向かい合わせに座って遊ぶものなのでしょうが。
でもシーソーだとしても、こういう構造のものは初めて見ました。

けっきょく大内裏でも京都所司代でもなく、鵺とシーソーが印象に残った二条公園でした。

(2024年1月訪問)

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