芦屋市南部の緑道ネットワーク沿いにある小公園を訪ねる連続シリーズ。
全10回の最終回は、緑道がつくられる前からあった、というか、この公園の存在を前提として緑道ネットワークが構築されている、芦屋川沿いの芦屋公園です。

もともと「芦屋遊園地」として1906年(明治39年)に当時の精道村によって計画されたもので、当初供用開始は翌1907年(明治40年)。ただし本格的に整備されたのは大正に入ってからのことで、大正年間に実施された芦屋川の河川改修で河道を狭めてまっすぐにしたことで生まれた土地を開発したものです。

時代によって公園区域が多少違っているようなのですが、現在の公園は、阪神・芦屋駅から南へ300メートルほど離れ、国道43号線を渡って少し行ったところから始まります。
北端には「玄関出たら公園の家」もあって、公園区域の変遷の名残ではないかと想像します。

ここから南北約650メートル、東西約50メートルの細長い敷地で公園が続きます。
東西方向の一般道で4つのブロックに区切られているので、まず北端のブロックから。

ここは松原の下に児童向けの遊具が置かれており、ご近所の子供たちの遊び場としての利用がメインとなります。

このブロックは、中心市街地や芦屋市役所に近いということもあって、公園に関わる特に重要な石碑が建てられています。
それがこちらの「猿丸君彰功碑」で、精道村の時代に村長を務め、芦屋川の改修や国鉄芦屋駅の設置などを企画した、猿丸又左衛門安明(1872-1920)を顕彰したものです。

また、この顕彰碑の裏手あたりには、マツの切り株を模したコンクリート擬木製のスツールがあります。

樹皮の雰囲気がよく表現されており、もう少しだけ色合いが濃ければ、背景のクロマツに溶け込んでしまうほどです。

一般道を渡り、北から2つ目のブロックに入ります。

このブロックだけで南北150メートル以上あるのですが、ほぼ全体が松林です。

遊具などがなく、敷地に余裕があるように見えるのか、いくつかの記念碑がこのブロックに集まっています。
これは阪神・淡路大震災の慰霊モニュメント。市内在住の俳人・稲畑汀子さんの「震災に 耐へし芦屋の 松涼し」という句が刻まれています。

こちらは、日中友好平和之塔。
古代、現在の芦屋市の海岸が漢人浜(あやひとはま、からひとはま)と呼ばれていたことなども踏まえ、日中友好を謳ったものです。
●碑文より「日中友好平和之塔を記念する
一衣帯水の日本と中国は、文化交流二千年の伝統を有する。この歴史的なきずなを認識し、尊重しよう。一大不幸をもたらした太平洋戦争は、日中戦争にさかのぼる。
これをきびしく反省して、真の日中友好と永遠の世界平和を祈念し、実践しよう。
1970年、芦屋市政30周年、日本中国友好協会創立20周年を記念して、提唱以来3年有半、市民各位の結集を得て、ここ「漢人の浜」に、日中友好平和の塔を建立する。茲に由来と誓いの詞を刻す。
1973年7月7日 日中友好平和の塔建設委員会

そして、このブロックの南端にあるのが「ぬえ塚」。
京都で源頼政に退治されたヌエの遺骸がこの付近に流れ着き、浦人たちに祀られ、塚が建てられた、という伝承があるそうです。
●現地の案内板より「ぬえ塚の伝説」
およそ800年ものむかし、源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがしていた怪鳥をみごとに射落とした。それは、ぬえ(鵺)といって、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという奇妙な化鳥であった。
その死がいをウツボ舟(丸木舟)にのせて、桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着した。浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。
ぬえ塚伝説は、「摂陽群談」や「摂津名所図会」などに記されているが、古墓にまつわる伝説の一つと思われる。
現在の碑は、後世につくられたものである。

平成17年3月 芦屋市教育委員会

ちなみに、芦屋市商工会だったと思うのですが、この塚にちなみ、ヌエをモチーフにしたキャラクターを公表したことがありました。たしか、名前は「ヌエちゃん」。
いわゆる「ブスかわ」「キモかわ」の類で、けっこういいキャラクターだと思ったのですが、とくに普及されることもなく自然消滅してしまった模様です。

その当時にダウンロードした画像が残っているので掲載してしまいますが、現在は商工会のサイトにも掲載されておらず、誰がつくった、何向けのキャラクターだったのかはさっぱり思い出せません。(※著作権上の問題など、ご指摘いただければ削除します)



さて、そこから南に下がり、北から3番目、南からなら2番目のブロックは、全体がテニスコートになっています。
1956年(昭和31年)の兵庫国体のテニス会場として建設されたもので、60年以上の伝統を持つテニスコートだということになります。

ただ、それほど広くもない細長い公園に10面ものテニスコートを取っているので、コートの周りはかなり窮屈で、東側は園路も取れない格好になっています。
テニスコートの建設当時なら、隣接する道路の交通量が少なくてなんとかなったのかも知れませんが、今の時代としては、少々厳しいところ。

一方、西側は多少の余裕があるのですが、道路に歩道がないため、園路とも歩道ともつかない中途半端な空間として利用されています。

もうちょっと、歩行者にとって快適なデザインというものを考えて良いようにも思います。

テニスコートからさらに南へ向かうと、南端ブロックに入ります。
南端ブロックは、北端ブロックと同じように、松林の下に遊具が並ぶ遊び場仕立てですが、面積的は北端ブロックよりも広く、また、広場空間も取られているため、北端ブロックよりももっと遊びやすい空間になっています。

また、このブロックには、大正・昭和初期の造形ではないかと思われる物件がいくつか残されています。
ブロック北端には、現在は水が流れていないため、写真にしてもわかりにくいのですが、噴水、流れ、池のようなもの。

また、流れの先には、石の山遊具のように、盛土+積石でつくられた「山」があります。

鎖につかまってロッククライミングをしたり、

階段を使って登山をしたり、

橋を渡って隣の山へ行ったり、

橋の下を潜ってトンネル遊びをしたり、

さらには、山から生えた樹によじ登ったりして遊ぶことができます。

調べが足りないため、この遊具がいつ頃に作られたものなのか正確なことはわかりませんが、少なくとも50年は経過しているように見えます。
公園や遊具が規格化される以前の、創意と工夫に満ちていた時代の名残だろうと思います。

さて、「山」からさらに南へ進むと、規格化された遊具が並ぶ遊び場が始まります。

規格化されていると言っても、2つ並んだ滑り台はけっこう違います。
手前は一本柱で減速部がやや長いタイプ、奥は二本柱で全体に丸みを帯びたタイプです。

さらに滑り部が波打っているタイプもあります。

その他の4連ブランコ、雲梯などは、よくある標準的な形のもの。

揺れる動物のラッコ型1パンダ型5も、各地で採集されるタイプです。

さらに、この公園で一番新しいと複合遊具も。

けっこう複雑な形をしており、幼児から小学生まで遊べるようになっています。

この遊び場の中に、日時計があります。周りを色とりどりの花に囲まれ、日時計でありながら、花時計という物件。
傍らには、日時計そのものの歴史に触れた石碑があり、単なる装飾ではなく、教材的な意味あいで設置されたものだと思われます。

●現地の碑文より「時計の発明」
人間がはじめてつくった時計は、日時計だろうと思われます。
太陽が地面におとす木の影を見て、大昔の人びとは時刻のうつりかわりを知りました。
石器時代には、まっすぐにたてた大きな柱とそのまわりに時刻を示す目じるしをつけた時計がつくられました。
この日時計のように、時刻の正確なものは、約3500年ほど前から作られています。

芦屋市

そして、南ブロックの一番南、かつての砂浜に一番近い場所に、昭和初期に作られたとされる「旧芦屋遊園乗合バス待合所」が残されています。
現在はバス道からは切り離され、公園の休憩所として利用されていますが、なんというか、雰囲気のある良い建物です。

家族で海水浴を楽しんだ帰り道、こんな建物の中で、潮風を受けながら帰りのボンネットバスを待つ光景を想像してしまいます。

そして、この建物の横手にも、なにやら時代を感じさせる古い石組みがあって、芦屋公園はここまで。

埋立地に通じる道路を渡ると、かつての白砂青松の名残はまったくないものの、今の時代にとっては開放的なようにも思う芦屋川河口の海辺に出ます。

100年を超える歴史の分だけ色々な要素が詰まっていて面白く、いつかしっかりと資料を整理してみたい芦屋公園でした。

(2019年5月訪問)

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