3947/1000 遠軽公園(北海道遠軽町)

2025/05/27

遠軽町 身近な公園 石碑めぐり 鉄道遺産 北海道 名勝

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北海道遠軽町(えんがるちょう)は、オホーツク地域の内陸部にある町です。
北海道でも珍しく、士族結社や屯田兵ではなくキリスト教団体の入植によって開拓された歴史を持ち、道央から紋別、網走などオホーツク沿岸都市とを結ぶ鉄道の要衝として発展してきました。

しかし、和人の入植前からアイヌの皆さんは居たわけで、アイヌ語で「インカルシ(眺めの良い場所)」と呼ばれていた巨大な岩山が町名の由来となっています。その岩山の麓にあるのが、遠軽公園です。

日本語では瞰望岩(がんぼういわ)と呼ばれているのですが、とにかくどこからでも良く見えます。

それは公園内に限ってという話ではなく、遠軽駅からでも、このとおり。近くからの上2枚の写真では、ニョキッと突き出た大岩のように見えていましたが、この角度で見ると、稜線を持つ岩山の突端であることが分かります。
ちなみに、この突端まで歩いて登ることもでき、柵も何もない頂上から遠軽公園を見下ろすこともできるのですが、この時は地上部だけ訪ねました。

駅から歩いてきて、遠軽神社前の跨線橋を渡るところからだと、また少し違った目線の高さから眺める事もできます。
2011年(平成23年)には国指定名勝「ピカノカ(美しい・形)」の構成資産の一つに指定されており、その関係で園内にはまだ新しい解説板がいくつも立てられています。

■現地の解説板より「国指定ピリカノカ インカルシ(瞰望岩)」

《噴火によって生み出された町のシンボル》インカルシ(inkar-us-i)は、「眺める・いつも・するところ」という意味のアイヌ語です。遠軽の町名の由来であり、その意味から瞰望岩と名付けられた町のシンボルです。
この大きな岩の成り立ちには、火山の噴火が関係しています。頂上や散策路の途中にある石をよく観察すると、親指ほどの黒い石の粒がたくさん入っていることがわかります。これは、火山の噴火で流れ出たマグマが、水に触れたことでバラバラになったかけらなのです。火山の噴火が起きたおよそ700万年前の遠軽一帯は、水の中にあったことがわかります。

《アイヌの人たちは、ここから何を眺めていた?》インカルシは、国の名勝「ピカノカ(美しい・形)」の1つとしてオホーツク管内で初めて指定を受けました。これは、アイヌ文化に彩られた場所を守り、伝えていくために指定されたもので、インカルシ自体は、祈りの場や戦の時に砦となるチャシといわれています。
この場所に登ったアイヌの人たちは何を眺めていたのでしょうか?戦の備えに登ったのか、あるいは洪水の多かったこの土地で自然の変化をいち早く察し、避難するために登って来た場所だったかもしれません。みなさんは何を想い。この景色を眺めるでしょうか?

さて園内。郷土資料館側から入っていくと、公園なのか郷土館の駐車場なのか微妙な空間の奥に、忠魂碑など石碑、記念碑が集まっているエリアがあります。本ブログでは、こうした町の歴史を刻み込んだ石碑がたくさんある公園を”中央公園”と表現しています。

忠魂碑のすぐ隣に建つのは、信太寿之翁之碑。
信太寿之(しだ としゆき:1863-1929)は、群馬県出身の宣教師で、東北学院大学の創設者である押川方義らによって創立された「北海道同志教育会」のメンバーとして、この地にキリスト教の大学を設立するという目標を持って、1896年(明治29年)に開拓を始めた中心人物です。

忠魂碑を挟んで反対側には、薄荷耕作記念碑。山田耕筰濱田耕作、島耕作のような著名人の記念碑ではなく、純粋に薄荷(ハッカ)産業の記念碑です。
明治から昭和初期にかけて、薬用や香料の原材料としてわが国の貴重な輸出品となっていたハッカですが、北海道の気候にあい、穀物などよりも高値で取引されたことから、地域の産業として重要なものでした。
解説文中に出てくる楽田農場(がくでんのうじょう)は、上の信太寿之らが拓いたものです。

■現地の解説板より「薄荷耕作記念碑」

薄荷栽培が湧別地方の開拓に欠かせないと言えるほど重要であったことから、村長(当時は上湧別村)が発起人となり薄荷記念祭が開催され、神戸・横浜などの薄荷買付商人からも寄附を得て、明治44年に木製の記念碑(幅60.6cm、高さ4.54m)が瞰望岩下と北見のとん田市街の神社境内に設置されました。
現在、瞰望岩下に建てられている薄荷耕作記念碑は、学田農場における薄荷の栽培が北海道の薄荷栽培の基礎を築いた発祥の地といえることから、遠軽町薄荷耕作組合が遠軽町開基60周年、遠軽町薄荷耕作組合創立10周年を記念して昭和32年6月15日に建立したものです。

入植後の産業は、ハッカ栽培だけではありません。畜産業の記念碑もあります。

しかし、こちらは裏面の碑文は傷んで読みづらく、解説板もなかったので詳しいことが分かりませんが、遠軽の畜産業に貢献した乳牛種牛の「キングベッシーM・B・Bセニョーネリー号」を記念して、1957年(昭和32年)に建てられたものです。

さらに冒頭で書いたように、遠軽は鉄道の町でもあったので、蒸気機関車が本体と動輪の2形態で展示されています。当たり前ですが、動輪は本体が展示されているものとは別の機関車のものです。

全体が静態保存されている方は、D51-859号機。前照灯が増設され、スノープラウ(雪よけ)も付いた、雪国仕様のものです。
屋根や線路、踏切、切替器なども一緒に並んでおり、公園での展示としては充実しているように思います。

製造以来の経過を読むと、遠軽駅を含む石北本線を走っていた車両だということで、単なる機関車展示ではなく、町ゆかりの記念物だと言えましょう。
なお、横に付いている星と三輪のマークは、遠軽町の町章ですので、この公園にやってきてから描かれたと思われます。

■由緒

この機関車は通称「D51」といい昭和10年第1号機が完成、半流線形の最新鋭機として製作中止するまでに約1,000両程造られ、全国で国鉄輸送の中心機関車として活躍したうちの1両です。
昭和18年に造られたこの機関車は、第2次世界大戦の最中であり、鉄材不足の当時の典型的な戦時型で、石炭庫や運転室、ボイラーサイドデッキ等木材で代用できる所はすべて鉄材を節約し、不格好な姿で戦時輸送や、終戦后の復員兵と引揚者の輸送に活躍したものです。
石北本線の輸送についても、終戦の混乱する社会にあって木材製材の発送や農産物海産物の輸送需要が多く、一方では機関車修理資材の不足に加え、石炭の質量両面で確保に苦労した時で貨物ホームには、どこの沿線や駅でも滞貨の山であり、旅客輸送についても厳しい乗車制限される時代となり輸送力増強の必要性が強く叫ばれ、その声は日ましに強くなり、打開策として「大型機関車の導入」を実現する為遠軽町議会を先頭に全町民一丸となって運動が展開され遂に国鉄に練情主旨を認めさせ、昭和23年春がら秋にかけ6両が配置、石北本線の輸送力増強、滞貨一掃が実現することとなりました。
その后国鉄の動力近代化のなかで、昭和50年3月を以ってSLは全廃されジーゼル機関車に交替されました。思えばこの機関車も昭和47年7月用途廃止に伴い遠軽町の現在地に展示されましたが山陽、石北の2線で237万粁に及ぶ走行は推計108万屯もの輸送実績を肩にこの場から遠軽町の発展と鉄道輸送の状況を見守っていくものです。

デゴイチ(の展示用屋根)越しに瞰望岩を見上げます。

もう一両、外観からするとラッセル車らしきものも展示されているのですが、訪ねたのが10月も終わる頃だったので、冬支度が終わってカバーが掛けられていました。こちらは屋根がないから仕方ありません。

そして、蒸気機関車とラッセル車との間に、「がんぼう岩」と書かれた看板が建てられているのですが、その横に割と大きな岩があるので、知らない人に黙って見せたら、これを瞰望岩だと思ってしまわないかと心配になりました。

いやまぁ、取り越し苦労だとは思いますが。

さて、名勝や記念物を離れて、遠軽町の皆さんが日常的に使う施設も見ていきましょう。
まずは複合遊具その1。それぞれ単体でも成立するサイズの複合遊具が2つ繋がっており、合計3つの滑り台を行き来しながら遊べるようになっています。

もうひとつの複合遊具も、螺旋式やトンネル式など3つの滑り台と、ラダー遊具、登攀壁などが組み合わされており、けっこう大きなものです。

この2つが並んでいても、空間としてはゆとりがあり、周りで走ったり跳ねたりするスペースはいくらでもありますので、さすがは北海道のスケール感だと言えましょう。

ブランコはサイズ違いのものが2基ありますが、こちらも冬支度が終わったのか、チェーンも座板も取り外されていました。

複合遊具と瞰望岩。

遊具コーナーをすぎれば、グラウンド。不整形ですが、少年サッカーなら1面とれるくらいの広さがあります。
グラウンドの奥に見えているのは町立体育館でスポーツ団体の本部なども入っているので、町レベルの色々な大会などにも使われているかも知れません。

体育館の前から瞰望岩を眺めて終わる、遠軽公園でした。

(2024年10月訪問)

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