さて、ずっと前にNo.495 堺市のザビエル公園を訪ねましたが、本日は山口です。
ここ山口ではフランシスコ・ザビエルのことを、最初の濁点を抜いて「サビエル」と呼ぶことになっています。
理由はよくわからないのですがとにかくサビエルと呼ぶことになっているらしく、有名なカトリック教会もサビエル記念聖堂と呼ばれています。もっとも、道路標識では教会も聖堂も抜かして、ただ「サビエル」と書かれていますが。
地域あるあるの文脈で語られる「山口ではサビエル」なのですが、ブログ作者としては昭和の中期以降に、誰かが意識的に広めたルール、いわゆる「創られた伝統」ではないかと考えています。なぜなら、1952年(昭和27年)に開園したこの公園は「ザビエル公園」だからです。
入口の園名柱には、くっきりと「ザ」ビエルと刻まれています。
この公園に入っていく道沿いに建つ、開園当時に地域ゆかりの俳人・兼﨑地橙孫(かねざきぢとうそん、1890~1957)が関わったという案内の石碑にも、でっかく「ザビエル」と刻まれています。
癖の強い字ですが「ザ」ビエルですね。
そもそもスペイン語の綴りは" Xavier "なので、ザビエル、サビエル、シャビエルなど色々な日本語表記があったものの、山口ではうっすらとサビエルが優勢だったのでしょう。ところが文部省が歴史の教科書でザビエルに統一したことに反発した誰かが「山口ではサビエルで統一しましょう!」と提案したのではないかと、勝手に考えています。
妄想はさておき、ザビエルとサビエルが入り交じる聖ザビエル記念公園。山口に滞在していた時期のザビエルが大内義隆から住居として与えられた廃寺のあった場所だそうです。
園内に入ると真正面に大きな十字架型のザビエル記念碑があります。
視線の軸は通っているのですが、園路はないので横から回り込んで近寄ります。
近づいてみると、かなり大きいですね。高さ10メートルくらいあるでしょうか。
とは言え、公園が開かれた時は今以上に存在感があったのでしょうが、だんだんと周りの樹木も大きくなって少し景色の中に埋もれ気味です。
十字架の中に、ザビエルのレリーフ。
銘板には「聖ザビエル記念碑」と刻まれており、ここでも「ザ」ビエルです。
園内にはもう一人、幕末に来日してザビエル研究やこの公園の用地の確保に尽力したアマトリウス・ビリヨン神父の胸像も建てられています。
その横にある解説板は、最近のものなので全部「サ」ビエル表記に統一されています。
■現地の解説板より「サビエル記念公園」フランシスコ・サビエル(1506~1552)は天文18年(1549)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸、天文19年(1550)11月、京都へ布教に行く途中山口に立ち寄り、京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため、天文20年(1551)4月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与えました。ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれています。明治22年(1889)、フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊もその一人でした。そして大正15年(1936)10月16日、高さ10メートルにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立されました。しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されました。現在の肖像は、昭和24年(1949)サビエル来山四百年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものです
細かいことはわかりませんが、書状の記念碑があるくらいなので、トルレスが教会を建てたのもこの場所だったということで良いのでしょうか?
■現地の解説板より「大内義長の裁許状」天文20年(1559)9月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去りました。その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死しました。陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせました。この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものです。
ということで、歴史公園としての色が濃いザビエル記念公園ですが、取ってつけたように2連ブランコが1基だけ置かれています。
これ以外には遊具がないので、ご近所の方が孫を連れてたまに遊びにくるくらいの使われ方でしょうか。
ザとかサとか細かいことは気にせずに歴史に親しみたいザビエル記念公園でした。
(2021年7月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿