ただし琉球王国時代の名乗り方のルールで、野國は地名(領地名)、總管は琉球の進貢船の事務長を表す役職名ですので、野國總管は「野国村から来た事務長さん」といった意味で、それ以上に詳しい人物史などは伝わっていないそうです。
ちなみに下の写真は、公園ではなく近くの商工会前にあった立像。
解説板などはなかったのですが、なにかの鉢植えを抱えていますので、きっと野國總管でしょう。
その後、本土復帰後の1977年に一帯が都市公園として位置づけられ、1990年代の初めにおおむね現在のような公園として整備され、さらに伝来400年にあたる2005年にお宮に灯籠などが寄進されて今に至ります。
現在の公園は中学校やお宮との境界線が曖昧で、公園のことばかりを書く本ブログとしてはどこまで取り上げて良いものか迷うのですが、とりあえず書き進めてみます。
こちらが中学校。戦前・戦中までは沖縄県立農林学校があった場所にあたります。
やけに立派な渡り廊下を潜った先に鳥居が見えています。
「参拝」順路に従っているので仕方ないのですが、これは完全に参道で、この時点では公園らしさはまったくありません。
先に述べたように、参道両脇の灯篭は伝来400年にあたる2005年に、県立農林学校の同窓会から寄付されたものです。
この場所が県立農林学校に縁の場所だということもありますし、農業を学んだ人たちにとって甘藷伝来が重要なできごとだという認識もあってのことかと想像します。
参道を上っていくと、お宮の目の前に大きな園名板がありました。やっぱり宮も含めて全体が公園になっているようです。
その奥には大きな石獅子。横にある碑文によれば、福建省泉州市恵安県の人民政府から友好親善の証として寄贈されたものだそうです。
野國總管が琉球の朝貢船で訪ねていった先、すなわち甘藷苗をもらってきた町ですね。
参道の上から学校のグラウンドを振り返ったところ。
ちなみに、さっき潜ってきた渡り廊下は中学校なのですが、嘉手納町では幼・小・中が並んで建っているので、子供たちは幼稚園のころからずっと野國總管に見守られているということになります。
さて、このままだと野國總管宮への参詣記になってしまうので、公園らしい風景を探すと、まずトイレが目に入りました。赤瓦の屋根に、太い木製柱を多用...しているわけがありません。
さて、そんな芸術的な擬木を横目に宮の北側に回り込むと、やっと公園らしい広場がありました。ゲートボール場2面分くらいの広さがあるでしょうか。
でも全体的に雑草に覆われていて、あまり使われている気配がありません。せっかくの広さがあるので、中学校のクラブででも使えば良いのにと思います。
本ブログが大好物にしている、沖縄の擬木コンクリートの柱です。
屋根を支えている太い柱だけでなく、細い飾り柱や、手は届かないので推測ですが梁の部分も、全部擬木コンクリートです。う~む、手が込んでいる。
さらに宮の裏手に回り込むと、今度は戦没者慰霊関係の碑が集まる一角がありました。
中心に招魂之塔、脇に顕彰碑、戦没者刻名板などが建てられています。
■招魂之塔「由来記」より日露戦役以来海外及本島内に於て散華せる軍人軍属学徒の英霊を此處に祀り世界平和を祈願して慰霊の塔を建立せり1957年12月吉日 嘉手納村
顕彰碑と刻銘板については、終戦50年を記念して1995年(平成7年)に刻銘板を全面改修し、併せて顕彰碑を建立したものだそうです。
■碑文より「鎮魂」<太平洋戦争終結五十周年にあたり>
招魂の塔に祀られた戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に恒久平和希求の切なる願いをこめ、ここに戦没者刻銘版の改修を行い、嘉手納町遺族会の総意により慰霊顕彰碑を建立する。
今日の我が国の平和と繁栄はひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされていることを決して忘れてはならない。
わたしたちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地となるよう強く希望し、世界の恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
御霊よとこしえに 安らかなれと祈る平成7年8月15日 嘉手納町遺族会 嘉手納町
招魂之塔の裏手には県立農林高校の卒業50周年記念碑と記念植樹があり、その前の細道がさらに奥に続いています。
細道の一番奥には開けたスペースがあり、「農林健児之塔」と「農林健児之像」が建てられています。
これは、学徒動員で亡くなった県立農林学校の生徒たちを記念するものです。
戦前、沖縄には21の中等学校がありましたが、沖縄戦ではこれらのすべての学校で、男子学生は上級生が「鉄血勤皇隊」、下級生が「通信隊」として、女子学徒は看護活動に動員されました。
農林学校の学生たちも中部から北部の山岳地を行ったり来たりしながら、多くの方が無くなったそうです。
■碑文より昭和20年(1945年)3月26日夜間、配属将校尚謙少尉は、中飛行場(現嘉手納飛行場)守備指揮官青柳時香中佐の命を受け、この地点から比謝川上流約2キロの農林壕において、鉄血勤皇隊農林学校隊を編成し、農林学徒は陸軍二等兵として青柳部隊に入隊した。”比謝川のたながをとりしかのおとこ いつかうるまのはなとちるらむ ”(田本清辞世の歌)
石碑の碑文は簡潔な文章で書かれていますが、それだけでは伝わらない細かい事情を記した解説板も、最近になって設置されたようです。
■現地の解説板より「農林鉄血勤皇隊(沖縄県立農林学校)」沖縄県立農林学校の前身は、1902年(明治35年)に開校された国頭郡各間切組合立農学校で、その後変遷を経て、1923年(大正12年)に林科を設置し、沖縄県立農林学校と改称しました。
1945年(昭和20年)3月27日、鉄血勤皇隊農林隊は、第19航空地区司令部(青柳隊)の指揮下に入り、中飛行場の糧秣(食料)を倉敷(現沖縄市)の山中まで運搬する仕事をさせられました。
米軍が上陸した4月1日の夕刻、敵陣に身を持って迫って攻撃する肉迫攻撃要員として20名の生徒が選抜され、中飛行場に向かいましたが、もぬけの殻で、引き返し、本部半島の独立混成第44旅団第2歩兵隊(宇土部隊)の指揮下に入ることとなり、5日、伊豆味で同部隊に入隊しました。
一方、農林隊本隊(肉迫攻撃隊以外の農林隊)は、4月4日に金武の観音堂の壕に到着しましたが、食料確保という難題を抱えていたため、解散することになりました。 4月7日、肉迫攻撃隊の生徒たちは、真部山に移動させられましたが、米軍の猛攻撃を受け、16日に多野岳への撤退を開始し、多野岳に到着した翌24日、東村の山中に撤退することになりました。
27日、東村内福地に到着。28日、米軍との銃撃戦で少尉以下、9名の生徒が戦士しました。平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・女性課
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