2583/1000 屋良城跡公園(沖縄県嘉手納町)

2020/11/03

沖縄県 嘉手納町 城跡 展望台

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沖縄では城という字を「グスク」と読ませることもありますが、屋良城跡公園は「やらじょうしこうえん」と読むようです。そして「じょうし」の漢字は城跡ではなく「城址」ではないのか、と二重の疑問から始まる屋良城跡公園。
嘉手納町の中心部とは近接しており、比謝川の南岸のグスク跡と川沿いの遊歩道からなる公園です。

比謝川(ひじゃがわ)は、沖縄本島では最大の流域面積を持ち、上流の支川・与那原川にある倉敷ダムは、本島の水道を支える重要なダムになっています。
この付近では流れの両岸が切り立った斜面になっているため、ちょっとしたジャングル渓谷のようになっています。

国道58号沿いから川沿いの遊歩道を500メートルほど上っていくと、やっと平地が現れて、池と展望台が整備されています。

池には中島があり、反橋で渡れるようになっています。

島には松も植えられて日本庭園風の仕立てではあるのですが、周りにはガジュマルなどが茂っているので、いささか不思議な光景になっています。

池からは丘の上に立派な階段が通じており、丘の頂上にはコンクリート製の砦のような展望台があります。

展望台は、ゴツゴツというか、ゴテゴテというか、不思議な形をした2階建てのものです。

でも、寝泊まりをする人への対策か、あるいは上部は劣化が進んでいるのか、階段はすべてフェンスで塞がれており、展望台としての機能は失っていました。

そこから少し進むと、今度は拝み人対策、あるいは安全対策だと思うのですが、石灰岩石の洞穴が塞がれているところが頻出します。

コンクリートだったり、木の板だったりしますが、あちこちが塞がれています。

塞がれている記憶ばかりが残った屋良城跡公園でした。

■現地の解説板より「屋良グスク」
屋良グスクは比謝川中流に位置し、標高38mを最高所とする小高い琉球石灰岩丘陵上に築かれたグスクであり、「屋良大川グスク」とも呼称される。
北側を流れる比謝川を天然の堀として利用し、南西面に半円状に外郭を巡らせた輪郭式城郭であり、築城は13~15世紀と考えられている。
発掘調査では、敷石遺構と4ヵ所の柱穴群が確認され、土器、須恵器、陶磁器、鉄製品、古銭、線刻画石版などが出土し、これらの遺構、遺物からして有力な按司の存在がうかがわれる中核的なグスクであったことが想定される。
伝承では、初代屋良大川按司(御先大川)は第3代北山世の主(仲昔今帰仁按司系統)の5男にあたり、英祖王の玄孫にあたる人物であったとされる。

【おまけ】
公園から見ると西端、比謝川と交わる国道58号の坂道を天川坂(あまかーびら)と言います。そこに解説板が立っていて「薩摩軍が琉球に侵攻してきた際に、坂の上から『おかゆ』を撒いて撃退しようとした」という伝承が書かれています。

■現地の解説板より「天川坂(アマカービラ)」
戦前の嘉手納警察署の東側に位置し、嘉手納から比謝矼へ通ずる石畳の坂道で、距離はおよそ40間(72m)、傾斜は30°であったと伝えられている。
この石畳道がいつごろ造られたのかは不明であるが、1609(慶長14)年の薩摩侵攻の際、薩摩軍の兵士に坂の上から熱々のおかゆを流し、薩摩軍の侵攻を防ごうとしたとの言い伝えが残されている。(後略)

なにぶん言い伝えなので細かいことがよくわからないのですが、粥や粥の煮汁を撒いて厄疫を追い払うという行為は東アジアに広く見られる風習なので(その場合は小豆粥ですが)、地元の人たちがそれをやろうとしたという話なのかな、と考えました。
いくらなんでも首里の正規軍が、真面目な作戦として「熱々粥流」を決行したわけではないと思うのですが...

(2020年9月訪問)

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