2116/1000 都立青山公園-南地区(東京都港区区)

2019/05/16

港区 身近な公園 東京都

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以前に、港区立の青山公園を訪ねましたが、今回は東京都立の青山公園。
この都立公園は、500メートルほど離れて北地区・南地区の2つに分かれているのですが、今回は南地区のみとなります。

場所は国立新美術館の南側、六本木トンネルが通り抜けている丘の端っこの方と、そこから西に一段下がったところが公園区域となります。丘の上下の高低差は、10メートルくらいあるでしょうか。

もともと、この付近は明治以降、終戦までは陸軍の駐屯地として使われており、その頃のことを刻んだ碑が、丘の上にありました。
■麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822年)に竹千代稲荷、天慶年間(938年〜946年)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。鎌倉時代には武蔵国の荘園として南部地区に飯倉御厨があり、寿永3年(1184年)源頼朝が伊勢大神宮の供物を調進したとの記録がある。
武家時代に入り豊臣秀吉の意向を受けて関東を領国として徳川家康が江戸城に到着したのは天正18年(1590年)と伝えられている。飯倉の地名は現在は麻布の東端の部分を示すが、古くは東は増上寺山内より、西は麻布竜土、六本木より永坂辺に至ったという。
当時の竜土町は麻布の百姓町であり、町況は地味で人通りもまばらだったという。麻布竜土町は、元和年間(1615年〜1624年)に芝愛宕下や西久保あたりにいた猟師が引き移って現7丁目6番あたりに竜土町をなしたのを起源とし、その名は猟人村のかの字の脱落とか、竜が下ったとか、また流動又は隆動より竜土に変ったなどともいわれる。
明治7年(1874年)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939年)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第七聯隊が創立された。現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
昭和62年10月25日
近衛歩兵第五聯隊 歩兵第三聯隊 有志一同建立


この碑文のすぐ横にパーゴラがあるのですが、その向こうは「六本木ヘリポート」と呼ばれる米軍基地として接収されており、実際には丘の上の大半に立ち入ることはできません。

それでも、なんとかして米軍基地の中を覗き込めるようにしたかったのか、パーゴラは丘の上の、さらに一段盛土をした場所に設置されています。

とは言え、ヘリポートの様子は、なんとなく眺められる程度。
けっこう頻繁にヘリコプターが離着陸しているそうですが、私が滞在していた間には見られませんでした。

ちなみに、米軍基地の区域としては、南にある星条旗新聞社も一体的なものとなっており、合わせて赤坂プレス・センター(Akasaka Press Center)と言うそうです。

さて、そんな感じで丘の上には公園施設は少なく、丘の下をグラウンドと遊具広場として使っているのが現状です。
面積的には大・小のグラウンドが広く、丘の下の8割方を占めています。

グラウンド(大)はミニサッカー2面程度、グラウンド(小)はゲートボール程度ができる広さがあります。

遊具コーナーは、敷地南端に、遠慮がちに設置されています。
公園全体の広さの割には、小ぢんまりとした幼児向け遊具が中心で、滑り台、ブランコ、揺れる乗物遊具、ジャングルジムなどがあります。

でも幼児向けの遊び場としては、やっぱり丘の上~斜面部分の樹林地を、もう少ししっかり使いたいところ。米軍基地の存在が、非常に疎ましく思います。

諸般の事情、都立公園にしては地味な感じもある都立青山公園(南地区)でした。

(209年1月訪問)

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