長田区を南北に貫く苅藻川(桧川)の東側に、小高い丘陵地があります。
この丘の呼び名が色々あって悩ましいのですが、とにかく丘の頂上付近の南~東斜面が大丸山(だいまるやま)公園になっています。

町名としては大丸町(だいまるちょう)なのですが、これについて神戸史学会編『新神戸の町名』から抜粋整理すれば、「大丸はもとは“オホマル”と読み、昭和50年の『神戸市町名一覧表』にも“オオマルチョウ”とふりがなをつけているが、地元ではオオマルはオマルを連想させるからダイマルで通したために昭和52年にダイマル町とした」とあります。

そこでいつもお世話になっている日文研の地図データベースで大正の終わり頃の地図を見ると、この山は「長田山」と記され、まだ住宅開発が及ばない姿となっています。また、溜池が多く、平地部が市街化するまでは下流域の水利に役割を果たしていた様子がうかがわれます。

神戸市地圖 : 付西灘村(1924)

それから10年ほどたった1935年(昭和10年)の地図では、溜池はすべて埋められて広範囲に町割りが行なわれ、大丸町(だいまるちょう)、片山町(かたやまちょう)などの町名も記されています。
地図の標記を信じれば、地元ではこの頃から40年以上ずっと「だいまる」だったわけですから、それを役所に「おおまる」だと言われると困ったことでしょう。

神戸市街全圖 : 實地踏測(1935)

現在の公園は、丘の頂上に大きく広場を取り、そこから南~東向きの斜面を階段状に小広場とした構造になっています。

頂上の広場はこんな感じ。公園周辺が坂の町なので、貴重な平場だと言えましょう。

広場の端まで行くと、西は須磨・淡路、

南は泉州方面までの眺望が開けます。

ここから南向きの斜面地にかけては、ガケ滑り台とガケ登り遊具が設置されています。
鎖が付いていない、写真左側のコンクリート部分の使い方が謎。

ほかにも斜面にコンクリート基礎の跡が残っているので、ここにもなにか遊具があった可能性があるのですが、これも謎。

もちろん滑り台だけではなく、つづら折りの園路や階段でも行き来ができます。

途中には東(神戸港)方面に向けて視界が開けていたであろうスポットもあるのですが、現状では樹木が大きくなって眺望はイマイチです。

さらに下りてくると、ブランコや鉄棒のある小広場に出ます。
滑り台との距離が離れすぎているのが難点かも。

この小広場の西端あたりに、阪神・淡路大震災で被害が大きかった公園から移植されたという樹木がありました。
解説板の後ろに2本の樹がありますが、左のケヤキと右のシラカシの両方ともがそれにあたるようです。

■現地の解説板より
1995年1月17日、午前5時46分、淡路島北部を震源とする兵庫県南部地震が発生、この地震により多くの尊い人命が奪われ、神戸市も未曾有の被害を受けました。その中でも長田区は、地震による建物の倒壊、地震後の大火災害等、特に被害が集中しました。
ここにある被災木は、火災の真只中にあった長田区若松町3丁目の新長田公園から移植してきた樹木です。公園と隣接していた建物が燃え、猛火にさらされ、この様な姿になりました。焼けただれた幹を見ると、火災の恐ろしさを思い知らされます。と同時に、必死に生き抜き、この様に葉を茂らせている姿からは、生命の力強さを感じ取れます。
この被災木は、震災の体験と復興への希望を永遠に記憶する証として、大丸山公園に移植されたものです。

1997年3月 神戸市

ただ、ケヤキの幹をグルリと見て回っても、解説板にあるような「焼けただれた」感じはしないのが謎です。No.1377 大国公園のクスノキはいま見ても焼け焦げた跡がよくわかるのですが、ケヤキのほうが樹皮の回復力が高いのでしょうか。
でも、ケヤキを植える場所としては少し狭いし風の当たりも強そうなので、せっかく移すならもう少し広い場所にしてあげたかった気もします。

ちなみに解説板に出てくる新長田公園には、震災から1週間後に調査に行った記憶があります。この中のどのケヤキが移植されてきたのでしょうか。
この新長田公園は、公園そのものが大きな被害を受けていたため、その後の区画整理で廃止になった幻の公園の一つです。

1995年1月の新長田公園 (株)総合計画機構 所蔵

色々と思い出す大丸山公園でした。

(2018年11月訪問)

【2022年1月追記】
1月9日付けの神戸新聞記事によれば、新長田公園から移植された2本の樹のうちのケヤキが枯れてしまい、2021年10月に伐採されてしまったそうです。

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