いきつぎ広場は、赤穂浪士で有名な播州赤穂の中心部、駅から赤穂城跡へと向かう目抜き通り沿いにある小広場です。
1985年の日本TV系時代劇「忠臣蔵」より 大石内蔵助は里見浩太朗 |
公園というよりは、歩道が少し広くなったような場所で、観光対応でつくられたポケットパークの類です。
「いきつぎ」の由来はこちらの井戸で、松之廊下の刃傷沙汰を赤穂城まで知らせに来た藩士たちが、お城に入る前に息を整えるために水を飲んだという言い伝えがあるそうです。
■現地の解説板より「息継ぎ井戸」
元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。早水藤左衛門と萱野三平がその大事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。
その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城へ向かったと伝えられています。
ちなみに、松之廊下で刀を抜いた浅野内匠頭には即日切腹の沙汰が下されたため、第1便として刃傷沙汰、第2便として殿様切腹と浅野家取り潰しを知らせる使者が走ったそうで、忠臣蔵の映画などでは、1便が着いた後に「殿様にはどんな沙汰が下るのか?」「喧嘩両成敗?」「赤穂藩はどうなる?」「慌てず次の使者を待て!」などと議論が沸騰しているところい第2便が駆け込んでくるシーンがあります。
解説板によれば第1便の使者はここで水を飲んだそうですが、第2便の方がさらに急を要する使者だったので、ここで水も飲まずに駆け込んだものと思われます。
おなじ広場内には、もう一つ井戸(と土管)が展示されています。2つは2~3メートルしか離れていないのですが、こちらの灰色の井戸の方の解説板には、わざわざ「この場所で使われていた」と書かれています。
■現地の解説板より「赤穂旧上水道」
江戸時代に敷設された赤穂旧上水道は、近代上水道が敷設された昭和19年(1944)まで赤穂の町に潤いを与えてくれました。これは、昭和初期頃にこの場所で使われていた汲出枡(井戸)と上水管を展示したものです。
■現地の解説板より「赤穂旧上水道」
赤穂城は海岸沿いに築かれ、その城下町も千種川河口のデルタ上にあります。赤穂旧上水道は、良い飲料水を得るため約7キロメートル上流の千種川から取水し、導水路を経て城下町・城内へ配水したものです。この敷設工事は、17世紀前半に池田市の代官(郡代)垂水半左衛門が指揮をして行われました。
赤穂旧上水道は侍屋敷だけではなく町家にも汲出枡(井戸)を設けて各戸へ給水していることが特徴です。
江戸の神田上水や備後の福山浄水ととともに日本三水道の一つといわれています。
ここで初めて耳にした「日本三水道」という言葉。だいたい三大○○というと「自分のところ、有名どころ、とって付けたところ」の3つというのが相場なので、気になって調べてみました。
すると『赤穂の民俗その7 加里屋・上仮屋編』に収められている「人々のくらしと赤穂水道」(久保良道)では「赤穂、神田、近江八幡」となっていて、三大水道もご多分に漏れずその伝に連ねそうです。
そして福山市のホームページによれば、福山旧水道は「一般の飲用を主とする水道としては神田上水,近江八幡水道,赤穂水道,中津水道に次ぐ全国で5番目という歴史を持っています」とのことで、順番で言えば「神田、八幡、赤穂」で三大で構わないかな、と思います。
しかし一方で、福山市は自ら「三大○○」などと言わないところに好感が持てるのも事実です。
そして公園外になりますが、隣に立つ赤穂情報物産館の壁には、忠臣蔵かるたのイラストで「お・も・て・な・し」が描かれていました。
お おかるは二階へ延べ鏡
も 元はと言えば恋の意趣
て 手の鳴るほうへ
な 名に大星の謀
し 縞の財布に五十両
かるたはカラフルなのですが、この色あせた看板は、早急に直したほうが良いと思ったいきつぎ広場でした。
(2018年12月訪問)
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