倉吉市のシンボルと言える打吹山の打吹(うつぶき)公園は、1904年(明治37年)に当時皇太子だった大正天皇の行幸を記念して開かれた公園です。
打吹山は室町時代には伯耆国の中心として打吹城が置かれたところですが、江戸時代初めに廃城となって300年後に公園となったものですので、公園にも城跡の色はそれほど強くありません。

公園の麓にある小学校の壁画と、後ろにそびえる打吹山の景色は、倉吉の定番スポットになっています。

壁画に描かれているのは、打吹山に伝わる天女伝説です。
これについては、園内の羽衣池の横に案内板に説明が書かれています。

●現地の案内板より「羽衣池」
この池は、明治37年打吹公園の造園と同時に築かれたもので、面積は約600平方メートルであり、池の名は市政30周年の年に名称を公募、打吹山の天女伝説に、ゆかりの「羽衣池」を選定したものです。
打吹山の天女伝説は、農夫に羽衣をうばわれた天女が人間と契って、二人の子をもうけた後に羽衣をさがしだし、山麓の神坂の井戸のほとりから、ふたたび昇天した、二人の子供は悲しみ、天女が音楽を好んでいたところから山上で鐘を打ち、笛を吹いて奏楽をしたことから、この山を「打吹山」とよぶようになった。
なお、天女が羽衣をほした羽衣石は市内東町の大岳院にあり、羽衣池の跡もそのあたりにあったといわれています。

倉吉市
この羽衣池には、山の方から滝が流れ込んでいました。
見たところ自然地形で水が集まってくる谷になっているわけでもなさそうなので、人工の滝ではないかと思います。100年ほど前に池が整備された際に作られたとしたら、かなりの年代物です。

そんな羽衣池ですが、2016年(平成28年)の鳥取県中部地震の影響で、灯籠や園路に被害が出ていました。

池のそばから、坂道を上ります。
ちなみに坂道を上らずに反対側に行けば、陸上競技場や野球場などがあるブロックに出るのですが、今回はそちらには行きません。

上った先には、小さな動物園がありました。
雪の積もる日でしたが、動物園の見学路だけは除雪されていました。

動物園で目立つのは、まずサル山です。

雪が積もってサルの皆さんは大変ですが、こういう寒い日ならではの「サル同士が身を寄せ合って暖を取る姿」という定番の画が撮れました。

ほかにはニホンジカ、インドクジャクなどがいます。
これらは眺めるだけの動物たち。

一方、小動物と触れ合える「フレンドリー広場」には、ヤギやミニブタなどがいます。確かに、シカやクジャクと比べればフレンドリーっぽい動物が選ばれています。

でも一番気になったのは、こちらの手洗い場。蛇口の部分が動物になっています。
ややもすれば「動物をさわった後は手を洗いましょう」という貼り紙をした味気ない場所になりがちな手洗い場を、少しでも楽しくしようという心遣いに和みます。

そしてこちらはライオン像。
動物園にライオンがいるわけではなく、地元のライオンズクラブの記念碑です。

この動物園の山側には、滑り台、ブランコ、ジャングルジムなどのある遊具広場があります。
しかし動物園はともかく、遊具広場までは除雪の手が回っておらず、まったく立ち入る雰囲気にはなっていませんでした。

とりあえず、特徴的な遊具を遠目から撮影。
これは並行2連の滑り台。

サッカーボールのようなジャングルジム。たぶん20面体。

また、動物園と遊具広場の隣りにあるトイレは、倉吉のシンボルである白壁赤瓦の土蔵を模したものです。
倉吉市では昭和の末から公衆トイレの景観や快適性向上に力を入れており、このトイレもその一環で作られたものです。1987年(昭和62年)に日本トイレ協会の「グッドトイレ」に選ばれています。

そうした一時期の政策で作られた施設は、往々にして「できた時は良かったんだけどね~」となりがちですが、ここは今も清掃や飾りが行き届いており、非常に快適でした。
最近の相場からすると、個室が少し小さいのが玉に瑕ですが。

この動物園、遊具広場の周りが公園の中心地のようで、幾つかの石碑がありました。

まずこれは、明治時代に建てられた、この公園の経緯を示すという「打吹公園碑」(右側)。
撰文は漢文なうえ、かすれている箇所も多くて読むのが大変ですが、ごくごく大雑把に読むと、「皇太子(後の大正天皇)が来ることになったので、県知事が郡長と相談して『打吹山を公園にして、行殿(仮の御殿)としたら一挙両得だ』と決めて、みんなで頑張って柴を刈ったり石を穿ち砕いたりして、公園にしたよ。この公園が残ることで、後々も郡民は太子のことを思って益々発奮するからいいよね。」といった趣旨のことが書かれていました。
戦前は、この公園を見上げるたびに天女のことではなく、天皇の功徳を思い浮かべないといけなかったのですね。

横に簡単な解説板が建てられているのですが、漢文で書かれた碑文の内容については全く説明されていないので、少々不親切な気もします。

●現地の解説板より「打吹公園碑記」
この碑は明治39年に皇太子(後の大正天皇)がこの公園に行幸されたことを記念に建立が計画され、文章は倉吉市出身の漢学者細田謙蔵(隣の「紀栄碑」は文・書とも彼の手による)が作り、篆額は徳大寺實則、本文は当時書家として一世を風靡した日下部鳴鶴が書いて明治40年に完成したものである。碑石は三明寺古墳から持ち出され石橋として利用されていたものを使っている。
鳴鶴の書いた碑は全国におよそ一千あるといわれるが、この碑は彼の代表作と称される東京青山の「大久保公神道碑」とほぼ同時期に書かれ、書風もこれに近い。当時中国から伝わった「六朝風」をベースにしながらも、「唐風」の端正さも加えた鳴鶴円熟期の快作である。

公園碑の横に建つ小さな紀栄碑は、公園碑よりも文章が難しくて、読んでみてもさっぱりわかりませんでした。
「皇太子(後の大正天皇)が来た時に『公園碑』の内容を侍臣に読ませて、色々と質問して興味を持ってくれたよ」といったことが書かれているようなのですが...

続いて「学道不二 唯従自然」の碑。
鳥取市に生まれ、現在の倉吉市の養家に入り、生理学・科学教育の分野で名を成した後に、戦時中に文部大臣を務め、最後は東京裁判への出頭を固辞して自決した橋田邦彦の顕彰碑です。
こう言ってはなんですが、天皇を讃える目的の碑よりは親しみが持てます。

こちらは「贈従四位荒尾成章君碑」。
幕末に鳥取藩家老だったた荒尾成章(あらお しげあきら)は、維新後は鳥取では有名な宇倍神社、大神山神社の宮司を務めています。
公園碑、紀栄碑を読むので疲れてしまったので、こちらの撰文はパスさせてもらいました。

まぁそんな感じで、100年以上の時を越えてきた打吹公園。時代の変化に応じて、色々なものが残されています。
次の機会があれば、雪のために上れなかった山の上の方も紹介したいものです。

(2017年2月訪問)

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