1429/1000 南長崎花咲公園(東京都豊島区)

2017/03/29

キャラ物 偉人像 身近な公園 東京都 豊島区

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こちらの公園は以前は小さな児童遊園だったそうですが、1999年(平成11年)に拡張されて現在のような姿となったそうです。花咲公園というだけあって、多くの種類の花木が植えられていますが、それ以上にここを特徴づけているのはトキワ荘の記念碑です。
No.1428でも話題に出ましたが、1950年代のマンガ黎明期に手塚治虫を始めとするマンガ家たちが集ったアパート・トキワ荘は、この公園から200メートルほど離れた場所にありました。

「トキワ荘のヒーローたち」と名付けられた記念碑は、建物の模型を台座上に戴き、台座上には手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、鈴木伸一、森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、以上10名のマンガ家の肖像イラストとサインを刻んだ銅版が飾られています。

●碑文より トキワ荘のヒーローたち
トキワ荘は、豊島区椎名町5丁目(現在の南長崎3丁目)に1952(昭和27)年から1982(昭和57年)にかけて存在した木造アパートです。
上棟式は1952年12月6日。当時の漫画雑誌出版社である「学童社」が、自社の雑誌で連載を持つ漫画家をこのアパートへ入居させ、そうした若手漫画家らが後に著名となったため、漫画家、漫画ファンからは聖地的な扱いをされています。
最初にこのアパートに住んだ漫画家が手塚治虫。次に入居した寺田ヒロオは、手塚の向かいの部屋に住みました。寺田は、トキワ荘に次々と入居してくる新人漫画家らと「新漫画党」を結成し、彼らが理想とする漫画を描きました。この新漫画党が活動していた頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は、”漫画家の梁山泊”といわれました。
現在、一流漫画家と言われる人たちが、青春時代、下積み時代を過ごしたトキワ荘。彼らはこの地で研究と努力を積み重ねて、今日の地位を築いていったのです。ここトキワ荘には志を同じくする若者の明るい青春があったのです。

2009年4月吉日 豊島区 トキワ荘記念碑設置実行委員会

柵があって直近まで近づくことができないのですが、建物部分は鋳物なのでしょうか。

ちなみに少し離れた実際のトキワ荘跡地、現在は日本加除出版(株)の敷地にも下写真のように記念碑が設置されていて見学ができるのですが、どちらも同じ型から作られているように思いました。

さらに記念碑の後ろには、碑文に輪をかけて詳しい内容が書かれた解説板が設置されています。

●現地の解説板より 記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
トキワ荘は、豊島区椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)にあったアパートです。1953(昭和28)年、その2階に、漫画家 の手塚治虫 が入居しました。家賃は3千円、押入れ付四畳半の部屋でした。その頃、椎名町をはじめとする西武線沿線地域には多くの漫画家が住んでおり、手塚もこの地域にあこがれ、雑誌『漫画少年』の編集者の紹介で入居したと言われています。この年の末に同じく編集者の紹介で寺田ヒロオも入居します。
翌年、手塚は豊島区雑司が谷のアパート並木ハウスへ転居します。その際、トキワ荘の空いた部屋の敷金をそのままにしておくからと、藤子不二雄 (藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ) に入居を勧めます。彼らが喜んで、あこがれの手塚の部屋に入居したのは有名な話です。
その後も鈴木伸一、森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお等が、漫画家を志して入居します。二十歳前後で上京した彼らは、お互いにはげまし合いながら創作に打ち込みました。ひたむきに仕事に取り組み、仲間と集う日々は、笑いと活気に満ちたものでした。
寺田は、若手漫画家らと「新漫画党」を結成し、トキワ荘を拠点に活動します。この頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は”漫画家の梁山泊”ともいわれました。記念碑のトキワ荘入口にあるスクーターは、熱心な通い組であった、つのだじろうのものをイメージしています。この他にも、永田竹丸、横山孝雄、長谷邦夫など、記念碑に刻み込めないほど多くの若い漫画家たちがトキワ荘に通っていました。
手塚を慕う若手漫画家が集まったトキワ荘。彼らの活躍によって、トキワ荘の名も全国的に有名になりました。トキワ荘は現存しませんが、この地で若き漫画家たちが青春を過ごし、研究と努力の末に、今日の地位を築いていったことは、かけがえのない地域の誇りであり”漫画家の聖地”として今に語り継がれています。
区は、地域の方々で組織された実行委員会と協働し、トキワ荘の跡地に一番近いこの公園に記念碑を設置しました。この事業には、地域とトキワ荘ゆかりの漫画家、編集者、プロダクションなど多くの方々から多大なる協力をいただきました。

2009年10月  豊島区

こちらはトキワ荘の住人でもあった鈴木伸一氏、すなわち「ラーメン大好き小池さん」のモデルによるイラスト入り。
ちなみに、手塚治虫がトキワ荘から引っ越した先の「並木ハウス」は、No.1412 雑司が谷みみずく公園のすぐ近くで、2011年時点で当時のままに住宅として使われているという記事が、手塚治虫オフィシャルサイトに出ていました。

付近の詳しい地図も設置されています。
アニメのロケハン先を「聖地」と呼ぶ最近の風潮は仰々しすぎるので好きではありませんが、椎名町界隈が「マンガの聖地」を名乗るのは至極もっともだと思います。

公園のことばかり書く本ブログの視点からすると、マンガ家たちがトキワ荘に集っていた時代に、この公園がある場所はどのような土地利用だったのかが気になるのですが、商店街に設置されている仮設案内板にちゃんと記載がありました。
どこの町でもこんなに資料が豊富だと助かるのですが。

●現地の解説板より「花咲公園のミニコラム」
トキワ荘記念碑のある「花咲公園」は、当時、都営バスの社宅で「大和寮」とよばれていました。
昔は、バスの駐車スペースも兼ねていたのか? その広い空き地部分が、町内祭礼の集合場所にもなっていた。
社宅が解体された後、児童遊園になり、2回にわたる整備、拡張で、現在の公園となりました。

さて、記念碑から少し離れて、公園の全体像についても忘れずに触れておきましょう。
上に引用したミニコラムにもあるように、小さな公園から拡張整備を繰り返して今の姿となったようですが、その名残か敷地は少しいびつな形状をしています。

北側の商店街に面した出入り口は、少し間口を狭めにして、花壇を多く取っています。
商店街の人通りに配慮し、安全面と華やかさを意識した仕立てと言えましょう。

こちら側から入ると、ゲートボールにちょうど良い大きさの広場があり、私が訪れたときもプレー中でした。

一方、西側の出入り口から入ったところは、ゾウの滑り台、揺れる“としまななまる”など幼児向けの遊具が何点か置かれた広場になっています。
ベンチも普通の公園には無いような可愛い仕立てになっていて、子供たちの目を引きそうです。

防災用と思しき井戸も、石張りを削り割って小さな水路が付けてあり、子供たちのちょっとした水遊びに気を配った様子が見て取れます。

このように子供たちを楽しませようという気配りに溢れていて、もしトキワ荘の記念碑がなかったとしても、かなり私の記憶に残ったと思われる南長崎花咲公園でした。

(2016年12月訪問)


【2018年7月追記】
公園の南半分(ゲートボールにちょうど良い大きさの広場と書いたあたり)を使って、トキワ荘を実物大で復元しようという豊島区のプロジェクトが動いていることを知りました。


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