文京区の清和公園は、東京大学などがある本郷台地の西端にあたり、白山通りの方に向かってガクッと落ち込む崖地にある小公園です。
文京区のHPには、”戦前にはすでに遊び場として利用されていましたが、戦災により荒廃していました。近隣住民の署名運動により、昭和26年(1951年)に東京都立公園として開園した後、文京区に移管され、昭和56年から57年にかけて改修を行いました”とあります。
地形的な構造は、戦後まもなくに公園になった時から大きく変化していないでは、と思うのですが、崖地部分を階段と水平道とで園地化し、崖上の平場と合わせて空間を構成しています。
水平部分は、斜面の切り方によっては、もう少し幅広く作れたようにも思いますが、ここでは道幅は最低限にして、代わりにツツジやサクラの植栽スペースを広く取るようにしています。
ちょっと窮屈な感じもしますが、プライベート感覚になれるとも言え、落ち着いて休憩したり、花を楽しんだりするには良い構造だと思います。
細道を抜けて崖上に至ると、400~500平米ほどの平場があり、ここはイチョウなどの木立に囲まれた遊び場になっています。
遊具は小ぶりな複合遊具と、揺れる動物遊具くらい。幼児向けの内容です。
広場と呼べるほどの広場スペースもありません。
でも実はこのあたり、江戸時代には大名屋敷だったものが、明治維新後は放置され原っぱになり、右京山あるいは右京ヶ原と呼ばれていたそうです。
小説『姿三四郎』で、ライバルの柔術家・檜垣源之助との最後の死闘の舞台となった場所ですが、黒澤明の映画版では箱根ロケが行なわれて、東京市内らしからぬ広大な草原で2人は対決します。
|  | 
| Wikipedia”姿三四郎”より引用(パブリック・ドメイン) | 
■現地の解説板より「右京山(清和公園の上一帯)」
もと上州高崎藩主(7万2千石)松平右京亮の中屋敷であった。明治維新後、土地は家臣に与えられた後、下真砂・春日通り沿いの地の他は、政府の所有となり陸軍省や文部省の所管となった。長らくこの台地は原っぱで、子どもたちのよい遊び場であった。そして、右京亮にちなんで右京山(右京ヶ原)と呼ばれた。文部省用地は、大正11年に東京市に払い下げられた。市は住宅、独身者アパート(清和寮)や真砂小売市場(現区民センター内)などを造った。小説『姿三四郎』(富田常雄作;昭和17年刊行)の中で、三四郎と檜垣源之助との死闘の場となった。また、近くの旧菊坂町時代の樋口一葉は、妹と虫の音を聞きに来た。また「この夜、母君と共に右京山に烟火見る。九段の祭にて、こゝよりよく見ゆればなり」と明治26年5月7日の日記にある。(文京区教育委員会 昭和59年3月)
今は昔の清和公園でした。
(2025年5月訪問)








 
 
 
 
 

0 件のコメント:
コメントを投稿