さて、丸山新町(まるやましんまち)公園は、元は白山1丁目第2児童遊園という名前だったものが、2015年(平成27年)に大規模リニューアルされた際に、現在の名前になったそうです。
現在、文京区に丸山新町という町名はないのですが、区HPにある『文京区町会連合会創立60周年記念誌「六十年のあゆみ」(2014年11月発行)』によれば、”往古は小石川村に属し、後阿部対馬守の中屋敷となって丸山屋敷と称えたが、元禄中上地して幕府の医師等の拝領屋敷があり、初めて丸山新町と称した。”とあります。今風に言えば、丸山ニュータウンですね。
園名板に「愛称ふねこうえん」と書かれているだけあって、目立っているのは船の形の複合遊具。おそらく、以前から船遊具があった記憶を残しつつ、公園リニューアルの際に遊具も入れ替えたのでしょう。
遊具のパーツとしては、スパイラル滑り台を軸に、小さい滑り台、ネット遊具、登攀壁などを組み合わせています。
遊びパネルは少なめですが、それでも船遊具なので、操舵輪は欠かせません。
メイン遊具が船なので、揺れる動物も海の仲間。イルカ型14が波間を疾走しています。
船遊具は通りに面したよく目立つ場所にあるのですが、それとは対角の少し奥まった場所にも、ブランコなどの遊具があります。
こちら側は、とくに船・海イメージとは関わりなく、座板式とバケット式の2連ブランコや、砂場、大人用の健康器具などが置かれています。
ぶら下がり器が深い青色なのが、かろうじて海と言えなくもないでしょうか。
さて、そんな丸山新町公園ですが、冒頭で引用した区HPで気になったことがあります。それは”阿部対馬守の中屋敷”という部分です。
実はこの公園は、No.4085 西片公園と直線距離で600メートルほど離れた場所にあるのですが、No.4085は、現地の解説板で”阿部伊勢守というお殿様(今の広島県の東部を領地としていた大名)の屋敷”だと書かれていました。阿部対馬守と阿部伊勢守は同じ家なのか、それとも隣同士で違う阿部さんの家があったのか。そこが気になるのです。
No.4085が備後福山藩の阿部家であることは明らかなので調べてみると、対馬守に任ぜられたのは初代・阿部正邦、5代・阿部正精、6代・阿部正寧、伊勢守は2代・阿部正福、4代・阿部正倫、7代・阿部正弘だそうです。
そして、この公園付近が上地されたという元禄年間の阿部家当主は阿部正邦なのですが、まだ福山には転封されておらず、丹後宮津藩を治めていました。
ですので、1693年(元禄6年)の『江戸図正方鑑』では「アベツシマ 丹コ゚ミヤツ」と記されており、丸山新町公園は、この屋敷地内で土地は細分化されていないようです。
これが江戸が東京と改まって間もない1869年(明治2年)の『東京全図』では、「安部主計」と書かれており、これは地図が発行される少し前に亡くなった福山藩阿部家8代の阿部正教だろうと思います。そして丸山新町公園付近は阿部さんの屋敷から外れて、町になっています。
ということで、宮津から福山に移った阿部さんの大きなお屋敷の、北端と南端とが2つの小公園になったと考えられる丸山新町公園でした。
(2025年4月訪問)












0 件のコメント:
コメントを投稿