文京区の西片(にしかた)あたりは、江戸時代は大名・武家屋敷が並んでいたのですが、明治以降に開発されて、今も落ち着いた住宅地が広がっています。
そんな町に、大名屋敷に起源を持つ“大椎樹(おおしいのき)”を伝える西片公園があります。
公園そのものが、もとは大名家だった阿部氏の土地で、そこにあった大きなシイノキの周りを私設公園として開いたのが始まりだとか。
と言っても、解説板によれば現在のシイノキは3代目。令和になってから登場した、まだまだ新米です。
■現地の解説板より「文京区立西片公園の“大椎樹”」
みなさんは、この大きな石のおもてに書いてある宇がよめますか。 これは「大椎樹(おおしいのき)」とよみます。
この石のうしろには、400年もいきていたといわれる、写真のような大きなシイの木がありました。(この石の近くにある木もシイの木です)
写真の木は、江戸時代にこの公園のまわりが、阿部伊勢守というお殿様(今の広島県の東部を領地としていた大名)の屋敷だったので、「阿部の大椎樹」と呼ばれていました。そのころは、水道橋の近くからも見えたそうです。ところが大正2年に大風にあってから弱りはじめ、昭和33年にはついに枯れてあぶなくなったので、とうとう切りたおすことになりました。
昭和15年に「大椎樹」のあとつぎの木として、町会のみなさんによって植えられ、「世継ぎの椎」とよばれていた椎の木も、時を経て、植え替えることになりました。
みなさんも「世継ぎの椎」を植えた人々の町の歴史への思いとともに、新しく植えられた椎の木をはじめ、西片公園や地域の緑を、大切にしてあげてください。(令和3年10月文京区)
解説板に写真がある大椎樹と比べると、また園内の他の樹木と比べても小さなシイノキですが、なにかと先代、先々代と比べるというのもの気の毒なので、これからの成長を見守りましょう。
それはさておき、シイノキ以外の公園ですが、解説板が建てられた2021年(令和3年)に大改修を受けており、全体的にスッキリした外観と、外周をぐるりと取り巻く長いベンチウォールが特徴となっています。
ご近所の皆さんが集まるには、この長いベンチが魅力ですね。
公園に、自由に座れる場所が多いのは良いことです。ただ、油断すると後ろの低木がすぐに伸びてきますから、手入れも重要です。
ベンチの一部にだけパーゴラを掛けたり、それとは別に屋根付きの休憩所も設けたりと、単に長いベンチを作るだけではなく、少しずつでも変化を持たせてあるので、その時々で座る場所を選べるのも嬉しいポイントです。
遊具は、どことなく大椎樹に引っ張られて、椎の実を拾いに来たリス型8や、
大きなシイノキの葉っぱでも、首を伸ばして葉モリモリと食べてしまうキリン型7などが置かれています。
複合遊具だけ、森や樹々のイメージに合うものが見つからなかったようですが、それでも、かろうじてウッディ感のあるものを使っています。
今どきの再整備なので、防災機能の向上も図られており、防災倉庫付きの多目的トイレも作られています。
ところで、解説板に話は戻りますが、その中で備後福山藩のお殿様である阿部家が登場しました。
江戸時代の大名屋敷と言えば、明治になってからは皇族や新政府系の政治家、実業家らの手に渡った例が少なくないのですが、この阿部さんは、自らの屋敷を一般向けの住宅地として開発したところが特徴的で知られています。
文京区の『文京ふるさと歴史館だより第18号(H23年6月発行)』に簡潔にまとめられていますが、明治はじめの阿部さんは、この事業を『殖産日記』『不動産日記』等として記録に残しており、事業の経緯がかなりはっきりとわかるそうです。
元々から屋敷内にあった藩士向けの長屋を賃貸することから始めて、やがて道路を引き直して区画を整理し、上下水道などのインフラを導入し、土地を貸して住宅を建てさせる事業へと転換していったとか。
明治初めの地図では、まだ大きな屋敷のままですが、30年ほどでおおむね現在のような町割りができて、今日の住宅地区の礎を築いたそうです。
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| 明治二年東京全図(国際日本文化研究センターDBより)引用、一部加筆 |
大椎樹が色々なことを教えてくれる西片公園でした。
(2025年4月訪問)













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