姫路市の中心部は、中国山地から流れ出してくる市川と夢前川という2本の川が運ぶ土砂でつくられた沖積平野なのですが、その中に山地から切り離されたようにポコっと目立つ独立丘がいくつかあります。
これらの丘は古代から目立っていたらしく、播磨国風土記には、姫路がまだ海だった頃に、神々が乗る船が難破して、積荷が落ちたところが14ヵ所の丘になったという伝承があるそうです。
そのうちの一つだとされる男山は、標高約58メートル、麓には社寺や姫路市の文学館などが並びますが、頂上に水道配水池があり、これの周りが公園になっています。
■現地の案内板より「男山の由来」
この男山(標高57.5M)は、『播磨国風土記』(713年・奈良時代)に記されている説話の中で、姫路の14の丘の物語にでてくる「筥丘(はこおか)」だとされています。
その昔、大汝命はその子火明命があまりに乱暴者なので、因達神山(現在の八丈岩山)におきざりにして船を出したところ、火明命は大いに怒り、風波を起こし船を難破させました。その時、積荷の蚕子の流れ着いた所が日女道丘(姫路城のある現在の姫山で姫路の地名の由来になっている)、箱の着いた所が筥丘・・・と名づけられたということです。
また、男山は『播磨鑑』(1762年、江戸時代)に記されている「飾磨のかち染」の伝説にも関係があり、今の自衛隊姫路駐屯地内にあった長者屋敷から難をのがれて旅の男が逃げてきた山を男山、いっしょの女が逃げてきた山を姫山と名づけられたといいます。
男山の南中腹には、鎌倉から室町の動乱の時代1346年に姫山に初めて城を築いたといわれる赤松貞範がその鎮守として創建し、歴代の城主が信仰したといわれる「男山八幡神社」、江戸時代1617年に城主となった本多忠政の子忠刻の妻千姫が建立したといわれる「男山千姬天満宮」、南麓には「水尾神社」があります。(姫路市水道局)
神社の参道とは別に、公園に向かう階段があるので、ここから山頂へ向かいます。
麓の標高が15メートルほどなので、高低差40メートルくらいを一直線に登っていきます。

階段を登りきると「姫路市水道配水池」と書かれた門柱がありますが、この時点ですでに配水池建物の屋上にいます。公園としては、眼の前に広がる建物屋上部分と、ここからは一段下がった建物周囲の平坦地が利用可能です。
■現地の案内板より「男山配水池公園」
市民に親しまれる水道を目指すため水道施設の一つである男山配水池を市民の憩いの場として開放しています。
男山配水池から眺める城の景観は姫路城十景の一つになっています。高い石段を登るとパッと視界がひらけ、眺望絶景。姫路城が姫路市街とともに眼前に展開します。
案内板に書かれているとおりですが、まず一番の売り物は、姫路城方向の絶景でしょう。
天守閣までは、直線距離で500メートルほど。眺めるには程よい距離なうえ、同じくらいの高さの場所から見ることで、姫路城が川に囲まれた丘陵上に建つ平山城だということが非常によくわかります。
さて、園内。配水池といいますが、要は大きな箱型の貯水タンクがあって、その屋上と建物周りが公園ということになります。つまり本ブログの分類では、屋上公園に含まれます。
現地の解説板から、配水池に関する部分だけ抜書きすると、”この配水池は町裏水源池(市内八代字町裏)から送水された水道水を市街地へ配水している姫路市で最も古い配水池です。昭和2年(1927年)7月着工し、昭和4年(1929年)4月に完成したもので、当時は主に手作業により延11,719人の人員と、総工事費は26,343円75銭をかけています。構造は鉄筋コンクリート造りで、長さ22.72m、幅22.42mのものが2室からなり、有効水深3.0mで3,000m3の水を貯えることができます。”だそうです。

屋上部分は芝生と花壇とを組み合わせた園地で、外周部に園路が通っていますが、芝生の中も自由に歩き回れます。
花壇は、ところどころに隠しデザインがあって、これは八分音符。
これはト音記号だと思います。
あと、全然隠れていないコンクリート製の歯車みたいなものがいくつも顔を出しているのですが、これは公園としてのものではなく、配水池として必要な物件ではないかと思います。
いったい何なのかは分かりませんが。
配水池建物の屋上ではない建物周りの公園は、東側に休憩所付きの園地、西側にはちょっとだけ健康器具が置かれた園地があります。
でも、眺望に関してはやはり屋上部分の方が優れているので、それほど利用者は多くないように思います。

西側に来ると、奥のレンガ壁の後ろあたりから、登ってきた階段とは反対の、山の北側へ抜けることができます。

山の公園の良いところが出ている男山配水池公園でした。
(2024年8月訪問)
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