3751/1000 谷公園(福岡市中央区)

2024/10/01

身近な公園 戦没者慰霊碑 福岡県 福岡市中央区

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福岡市中央区にある谷公園は、旧陸軍の福岡陸軍墓地を前身とする公園です。
現地の解説板によれば、陸軍墓地としての歴史は1935年(昭和10年)以前に始まるそうですが、都市公園としては1971年(昭和46年)開園、面積6,493平米の街区公園です。

戦前のものなので、仕立ては神社風。大きな石道路が建つ参道を上って、園内主要部へと向かいます。

園内は、上写真の入口も含めれば大きく4段に分かれて築成されており、下から2段目は、あえて言うなら灯籠の広場。
サクラが植えられた草敷きの広場に、柵に囲まれた石灯籠が並んでいます。

子供がよじ登ったり地震の時に崩れて危ない、犬が粗相をする、あるいは人気のない夜になると灯籠がズリズリとあたりを這い回る、などの理由が推察されますが、なんとも珍妙な風景です。

そして、この段に「忠霊鎮護之地」と刻まれた石碑がありました。いわば、陸軍墓地時代の表札みたいなものです。
もともとは、もう少し参道からよく見える状態だったのでしょうが、今は樹木の枝が茂って、あまり目立たなくなっています。

そこから、さらに上って、下から数えて3段目まで来ました。
ここまで来ると、最上段にある墓標がよく見上げられるようになるので、陸軍の慰霊祭などを開催できるように確保された平場、参拝にあたってのメイン空間だと考えられます。

当時につくられた立派な手水や灯籠なども残してあり、形態としては、ほぼ神社だと言えます。

手水鉢は、1936年(昭和11年)、福岡市曹洞宗星華婦人会による奉献と刻まれています。
No.3690 名和公園でも手水鉢は婦人会の奉献になっていましたが、戦前はそうする風潮があったのでしょうか。

あと、時々見かける手水鉢のようで、そうではなさそうな物件。
用途は知らないのですが、立派な石造物であることは間違いありません。

そして、この3段目が園内では一番大きな平場で、また周りの住宅地からスロープで出入りできるということで、ブランコやトイレなどの児童公園アイテムも導入されており、日常の公園的利用の中心となります。

最上段に登って振り返ると、こんな感じ。

そして、墓地としてはメイン空間となる、大小の墓碑が並ぶ4段目。

時代とともに少しずつ拡張・再整備されていたりするので、碑文もいくつかあるのですが、いちばんわかりやすいものを引用してご紹介。

碑文より「福岡陸軍墓地の由来」

明治19年、陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に配置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州·上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立。他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。

引用文にあるように、正面を向いて横一列に並べられた巨大な合同墓は7基あるのですが、それ以外の「等」もたくさんあって、実際のところいくつあるのかは丹念に数えないとわかりません。

1935年(昭和10年)の上村聯隊長指示による改修統合以前のものと思われる、個人名の刻まれた墓も残っています。
その時点では、これだけを特に残す理由があったのでしょうが、今となってはその理由は不明です。

あるいは、巨大な合同墓になる以前の、小さな合同墓。明治27~28年の役とあるので、日清戦争の合同墓だとわかります。

中には、明治維新志士之墓のように、かなり後から加わったと思われるものもあります。

福岡の歴史の一端を知ることができる谷公園でした。

(2024年2月訪問)

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