3690/1000 名和公園(京都市上京区)

2024/07/20

京都市上京区 京都府 史跡 身近な公園

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名和長年(なわ・ながとし:?~1336)は南北朝時代に活躍した人。伯耆国(現在の鳥取県西部)の豪族でしたが、後醍醐帝の隠岐脱出を助け、それからは帝の側近として各地で奮戦します。しかし京都に攻め上ってきた足利尊氏の軍勢に敗れ、最後を迎えた地とされるのが、ここ名和公園があるあたりだそうです。

資料によれば、公園としての開設は1940年(昭和15年)。先に忠臣・長年を祀る空間があり、後から公園が乗っかったようで、今も半分神社、半分公園のような姿になっています。
大宮通りに面する西側には鳥居があり、「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石柱もあるので、こちら側がメインの出入口だとわかります。

大石柱の反対側には、「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小石柱もありますが、園名板は見当たりません。

名和長年についての解説板は、公園の外側、大宮通りからよく見えるところに置かれています、

現地の解説板より「名和長年(生年不詳~1336年)」

伯耆国名和(現在の鳥取県大山町)を拠点に海運業を行う豪族であったが、鎌倉幕府倒幕を計画して隠岐に配流されていた後醍醐天皇が島を脱出し、名和湊に上陸して以来、天皇の忠臣となった。
船上山(同県琴浦町)において幕府討伐を図る後醍醐天皇を迎えて挙兵、幕府軍に勝利し、戦功をあげた長年は伯耆守に任ぜられ、帆掛け舟の家紋を与えられた。戦では、弓の名手だったと伝えられている。
その後、建武の新政下において要職を担ったが、建武3年、武家政治の再興を呼びかけて挙兵した足利尊氏と戦い、当公園の地で討死を遂げたと伝えられている。

鳥居を潜ると参道風の園路がまっすぐと東に伸び、その横の余地のような部分に遊具があって、遊び場になっています。この部分が、現代の公園としてのメインスペースです。

遊具は2連ブランコと揺れる動物遊具が2基。混み合った京都の旧市街地では貴重な遊び場ではありますが、小学高学年になれば、かなり物足りない施設内容です。

参道風の道を進んで、2本の柱に「赫兮船上義勇」「昭兮大宮忠節」と刻まれた出入口の向こうが、名和長年を祀る空間。碑文は「船上山での義勇が輝き、大宮での忠節が光る」といった意味でしょうか。

大きな2つの碑と、手水鉢などが石畳の参道で結ばれており、玉垣もある姿は神社と変わりはありません。

その一角に、紀元2600年竣工記念碑がありました。つまり1940年(昭和15年)の公園開設の年なので、2600年の紀元節大祭に引っ掛けて公園整備がなされた記録なのだろうと思います。

こちらが、この場所の本来的な価値の根源とも言える「贈従一位名和長年公殉節之所」碑。高さ約3メートル、台座も入れると4.5メートルくらいある大きなもので、海軍大将・有馬良橘の書になり、建立は1939年(昭和14年)3月だと刻まれています。

資料によれば、1886年(明治19年)に正三位を贈られた時に最初の碑が建てられ、約50年後に正一位を贈り直された時に、新しい碑に建て替えられたとか。
ということは、はじめは公園開設よりもずっと前の話なので、明治-大正を通じて名和長年顕彰の地だったオープンスペースに、昭和前期になってから都市公園という制度を上乗せしたことがわかります。

碑の前の柱に刻まれているのは、名和家の帆掛船の家紋。後醍醐帝から下賜されたものと伝えられます。

古い方の1886年の碑も捨てられたりはしておらず、今もすぐ横に建っています。

こちらは井戸と手水鉢の跡地(?)。手水鉢は完全に機能を失っていますが、井戸はもしかすると現役かも知れません。
手水鉢の側面には「奉納 大日本國防婦人會」と刻まれており、両方をカバーするように四隅に柱礎石がありますので、元々は屋根が架かっていたようです。

いつかの時期に、手水鉢の中だけではなく、下部もコンクリートで固められており、正面の帆掛船の家紋も半分くらいが沈められています。
固めた理由はよくわかりませんが、無粋なことをしたものです。

戦前の京都の名残を感じさせる名和公園でした。

(2024年1月訪問)

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