佐璞丘(さぼくがおか)公園は、猪名寺(いなでら)という古代寺院があったと考えられる場所にある小公園です。
猪名寺については、白鳳時代から室町時代にかけて存続した寺院で、発掘調査によって法隆寺形式の伽藍配置であったことが分かっており、公園の計画区域は、山・森・寺院跡を含んだ約34,000平米、そのうち発掘調査を済ませた跡地の平坦な1,400平米ほどだけが公園として利用可能となっています。
そもそも佐璞丘という地名がよくわからないので調べてみると、尼崎市のHP「尼崎の歴史・古代編」に、“「佐璞」とは唐の官制で左大臣のことをさす左僕射(さぼくや)に通じます。蘇我氏が滅んだ乙巳の変ののち、都は孝徳天皇によって難波に移されました。その孝徳朝において左大臣を務めたのが阿倍内麻呂なので、内麻呂が創建に関わったとする考え方がありました。”とあります。
なんだか物の順番がわかりにくい文章ですが、「現在も佐璞という地名があって、それは左僕射という官名にちなんで付けられたと思われるので、佐璞にあった猪名寺の創建に、阿倍仲麻呂が関わっていたと考える人たちがいた」という意味でしょうか。
それであれば、「考える人達がいた」のは、室町時代に寺がなくなって跡地もはっきりしなくなった頃ですから、江戸時代以降に「猪名寺は阿倍仲麻呂が関わっていた説」に基づいて付けられた地名だということになります。
そんな勝手な考察を述べつつ園内に向かいますが、入口に建つのは、公園名の標柱ではなく猪名寺廃寺址の石柱。
現地の解説板より「猪名寺廃寺跡(いなでらはいじあと)」
伽藍配置は「法隆寺式」で、塔と金堂が東西に並び、これを中門からでる回廊が囲み、講堂がその北側に配されています。
塔心礎は円形凹状柱座をくりこみ、柱座とは別に同一石面上に舎利孔をもっています。 また各基壇や周囲の階段は凝灰岩でつくられています。
出土した遺物の大半は瓦類で、白鳳時代~室町時代にわたっています。特に白鳳時代軒瓦は、「川原寺式」と呼ばれているものです。
寺域全体については未調査のため詳しいことはわかりませんが、阪神間では最もよく旧状を残している廃寺跡です。伽藍は天正6~7年(1577~)の荒木村重と織田信長の合戦の際に焼失したものと思われます。(尼崎市教育委員会)
上写真の公園への進入路の左側(西側)には、猪名野神社の元宮、その隣には法園寺がありまして、遊具が奥の方に見えているのですが、なかなかたどり着きません。
法園寺の裏に回ると、上の解説板に出てきた塔礎石が置かれています。ここに塔が建っていたということなのでしょうか。それとも手水鉢として使われて、たまたまここに置かれていたものか。
さて、やっと公園内に入ります。
万葉の森と名付けられた樹々に囲まれており、夏でも少しひんやりとするほどです。
遊具は滑り台が2基、4連ブランコ、揺れる乗り物遊具、鉄棒、砂場など。児童公園に必要なものが揃っています。
滑り台はとくに需要が高いのでしょうか、コンクリート製のものと金属製のもの、2種類が置かれています。
ブランコは、尼崎市では2連が標準なのでしょうか、柵も2連用のものを無理やり2つ並べた格好になっています。
砂場は、なんとなく仏教寺院でよく使われる八葉の蓮華文を模っているように見えます。
もう一つ、陸軍の教練で使うみたいな登攀遊具。名前はよくわかりません。
森部分は、入ろうと思えば入れるけれど、公園としては開園していない区域なので、いちおうフェンスがあって入れなくなっています。きっと観察会とか説明会とか、何かの行事がある時だけ使うのでしょう。
なので、フェンスのこちら側で使える森は、これくらいだけ。
遊び場の北奥には小経が続いているのですが、「公園計画地につき関係者以外立入禁止」の看板が出ていたので、これ以上は踏み込みませんでした。
公園を出て100メートルほど歩き、藻川の堤防上から眺めると、森の密度が実感できる佐僕丘公園の森でした。
(2023年6月訪問)
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