No.3308 苦楽園二番町公園で登場した三笑橋から西へ進むと、苦楽園四番町、五番町を経て芦屋市の六麓荘方面へと繋がります。この四番町の中でも、標高が高めの、比較的新しい開発エリアにあるのが苦楽園四番町公園です。
かなり小ぶりな公園で、資料によれば面積は247平米。その中に割とはっきりとした舗装園路を通しているので、実際に使える部分はもっと狭くなります。
それならそれで、植栽ばかりの園地型と割り切っても良さそうなものですが、揺れる動物遊具が3点、横並びに置かれています。
でも、やっぱりちょっと狭っ苦しくなっていますね。もう少し施設を減らして、空間に余裕をもたせるほうが良いと思います。
そんな窮屈めの園内に、下村海南の歌碑と徳川大坂城の刻印石が飾られています。
でも植え込みが育ちすぎて、歌碑は下半分、刻印石はまったく見えなくなっています。
■現地の解説板より「此の地に住んだ下村海南の歌碑」
下村海南(本名・宏)1875~1957
大正から昭和前期にかけての新聞人、官僚。また、佐々木信綱門下の歌人、随筆家。台湾総督府民政長官を経て、大正10年、朝日新聞社に入社。我が国の新聞の近代化に多大の功績を残した。後、貴族院議員、日本放送協会々長を歴任。昭和20年、国務大臣兼情報局総裁として、第二次世界大戦の終結に尽力したことで知られる。昭和32年12月9日、82歳で没した。
海南は、故郷の和歌山を見はるかす此の地をこよなく愛し、大正10年、この宏大な地に邸宅を構え「海南荘」と称し、約15年間ここに住んだ。 その間、佐々木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて、歌会や各種集会を催し、苦楽園に文化の華を咲かせた。
この歌碑は、海南が東京へ転居したあと海南荘を買い取った堀抜義太郎氏によって、昭和12年に海南荘の庭内に建てられた ものである。碑には海南自筆の歌が刻まれている。眼ざむれば 松の下草刈る 鎌の 音さやに聞ゆ 日和なるらし
大坂城の刻印石は、東六甲ではあちこちにあって公園内に展示されているものも多いので、神戸-芦屋-西宮で協力して「刻印石スタンプラリー」でも開催すると良いかも知れません。その時は、イベントに合わせて剪定・草刈りをすべきでしょう。
ちなみに西宮市の越木岩~苦楽園界隈で見つかっているのは出雲松江・堀尾家の刻印が入っているもので、ここもその一つだそうです。石そのものはまったく見えませんでしたが。
奥まったところに意外なものが隠れていた苦楽園四番町公園でした。
(2023年2月訪問)
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