3118/1000 真壁公園(沖縄県糸満市)

2022/09/28

沖縄県 史跡 糸満市 社寺御嶽 石碑めぐり 戦没者慰霊碑 展望台

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No.3085 喜屋武公園の記事で「喜屋武地区は、戦中までは独立した喜屋武村でしたが、沖縄戦で人口の約半分を失ったために行政運営が困難になり、戦後まもなくに同じような境遇の周りの村々と合併したという歴史を持ちます」と書きました。
この時に合併した「周りの村々」の一つが真壁(マカベ)村で、現在の糸満市真壁地区にあたります。

旧・真壁村の中心集落である真壁から北に300~400メートルほど離れた丘が真壁公園で、公園ではあるのですが、史跡(真壁グスク)であり、信仰の場(真壁宮)があり、また戦跡でもあると重層的な歴史を持ち、それゆえに各種記念碑が集まってくるタイプの場所になっています。

■現地の解説板より「史跡真壁グスク」
真壁グスクは三つの郭から成るグスクで、三山分立時代に南山城の出城として築かれたといわれています。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入口近くには真壁神宮寺が建っています。伝承によると、
「真壁按司は白馬を飼っていた。その馬をめぐって国頭按司との間に争いが起こり、真壁按司は戦いに敗れた。忠義心の厚い白馬も主人の後を追って死んでしまったという。のちに、真壁の子孫が母の倒れた場所で霊石を見つけ、それを祀つるために建てたのが真壁神宮寺の始まり」と伝えられています。(『球陽外巻一遺老脱伝一」1745年)
本グスクは1995年8月~9月にかけて市教育委員会によって発掘調査が行われました。調査は展望台のある一の郭を中心に行われ、掘建柱の建物が確認されています。出土遺物にグスク土器、外国産陶器鉄器鉄、炭化米、獣魚骨などがあり、14~16世紀に栄えたグスクであることがわかりました。城壁は一部に切石積みが用いられていますが、ほとんどは野面積みで仕上げられています。
平成9年2月糸満市教育委員会

グスクの解説板は公園入口にあるのですが、記事は1995年に発掘調査が行われた「展望台のある一の郭」から始めてみます。
丘の頂上にざっくり幅10メートル足らず、長さ50メートルくらいの細長い平場があり、その中でも一番高いところに展望台があります。

地形で一番高いところにあるのに、さらに城壁のような石垣で高さを継ぎ足した展望台が設けられています。

展望台の周りに樹木が茂っているのですが、登ってくる時に通った階段の方向は視界が開けています。手前には真壁集落の建物が、奥にはひめゆりの塔などがあるリッジの森が見えています。

東すぐのところには、茂みに隠れるように城門のような開口部が見えました。
グスクの遺構あるいは公園施設なのかはよくわかりませんが、柵の向こうで歩いて近寄ることはできないので、おそらく遺構がとくに手入れもされないまま保存されているのではないかと思います。

一の郭から東の方へ下がっていくと、また少し平らなところがあったので、きっとそこが二の郭なのでしょう。
そこから公園入口の方へ戻る道筋は、巨岩が天然の城門のように口を開け、そこに亜熱帯の植物が絡まっていて、神聖な雰囲気を感じてしまいます。

じっさい、ここを通り抜ける時に2つの不思議な出来事に遭遇しました。
一つは、この岩の後ろの森の中からオカリナのような笛の音が聞こえてきたことです。結構近い距離ではっきりと、数分以上も聞こえていたのですが、なんの曲なのかはわかりませんでした。
春とは言え、もう暑い沖縄で、あえて森の中で笛を吹く人がいるとも思えないのですが、いったい何だったのでしょうか。

もう一つは、この城門のところで大人の握りこぶしくらいあるムラサキオカヤドカリを見かけたことです。
オカヤドカリの仲間は生まれた時は海辺で、それから海辺近くの森に暮らして、産卵の時にまた波打ち際に集まってくるのですが、ここは海辺から3km以上離れており、間には昼夜を問わず交通量の多い国道などもあるので、どうやって歩いてきたのかが不思議です。

さて、そんな不思議をくぐり抜けて、また山裾に戻ってきました。山裾なので当たり前ですが、また少し平場になっているところがあって、そこが真壁宮になっています。

■現地の解説板より「真壁宮(まかべぐう)」
「真壁のティラ」とも言われ、祭神は弁財天と真壁按司の霊石。南山時代の創建という。按司の孫に当たる首里大屋子(しゅりおおやこ)が祠を建て奉安した。17世紀末に、臨海寺の頼久和尚が熊野権現を合祀、真壁村人が社殿を寄進した。
航海安全、安産の神として、琉球諸島各地から参拝者がある。祭祀は真壁按司の子孫とされる新垣(しんがき)家(屋号兼元かねもと)が行う。祭日は旧暦9月9日。

そこから少し離れて、大きな戦没者慰霊碑「満霊之塔」があります。
碑文には、糸満市遺族会と糸満市によって1996年(平成8年)建立されたとあり、比較的新しいものです。1995年が沖縄戦から50年の節目だったので、それを目安として建立されたものではないかと思います。

戦没者慰霊碑はもう一つ、「真和の塔」。碑文によれば、1966年(昭和41年)3月に財団法人沖縄遺族連合会が建立したものです。

■碑文より
昭和20年5月下旬、新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊等の将兵は、優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部を破壊されるも怯まず、全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う
昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

地域にとって大事な公園には、どんどんと石碑が集まってきがちです。

こちらは田里朝直 (たさと・ちょうちょく)の生誕300周年記念顕彰碑。
田里について詳しいことは知らないのですが、琉球新報の沖縄コンパクト辞典記事によれば「1703~1773、組踊作者。”万歳敵討”、”大城崩”、”義臣物語”を創作する。組踊の創始者玉城朝薫の五番に対して三番と呼ばれている。口説が多用されている。」人物だそうです。
碑文では「義臣物語、月の豊多の舞台となっているここ糸満市の景勝地に建立する」とあるので、本人が糸満や真壁の出身ということではなさそうです。

その後ろの物陰には、井戸跡や、野犬捕獲用の箱罠もあって、なんだか色々と入り混じってきます。

これは句碑「製糖期の日が どっしりと村つつむ 石村」と刻まれています。
糸満市の資料によれば、旧真壁村出身の俳人・遠藤石村(1907-1977)のものだそうです。

色々と盛りだくさん、情報過多になってしまった頭を、広場を眺めて休める真壁公園でした。

(2022年4月訪問)

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