3001/1000 首里崎山公園(沖縄県那覇市)

2022/05/21

沖縄県 史跡 身近な公園 展望台 那覇市

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首里城(首里城公園)の南の出入口にあたる継世門を出て少し西に行ったところから尾根伝いに、首里崎山公園が細長く続いています。
細長く進んだ先の先には、琉球王朝時代に王府の別邸として設けられた御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)があったのですが、現在の公園敷地はそこまで届かず、史跡公園というよりは眺めの良い散策向きの公園として整備されています。

まずは道沿いの四阿がある園地横手から、園内へと誘われます。いきなり上り坂ですが、尾根沿いなので仕方がありません。

公園区域は、おおむね崎山遺跡-崎山御嶽-雨乞嶽-御茶屋御殿へと連なる稜線を使っています。ちょうど断層崖にあたり西~南方向にかけて急に落ち込む地形のため、どこを通っても非常に眺めが良いのが特徴です。

まず崎山遺跡だという大岩。
解説板を読んでも今ひとつわかりにくいのですが、ただ単に鹿の角や骨が出土したということではなく、No.1257 山下町第一洞穴公園のように人が加工した骨・角製品が見つかった遺跡なのでしょうか。

●現地の解説板より「崎山遺跡」
桃太郎が飛び出した後の桃のような、琉球石灰岩のところが、崎山遺跡です。旧石器時代の遺跡で、鹿の角や骨が発見されましたが、採石工事のために著しく破壊されました。
そのため、わずかに堆積する赤土と石灰岩の表面に、鹿の骨が見られるのみとなってしまいました。

そのままちょっと上ると、小ピークに出ます。まだ園内に入って1分くらいですが、すでに那覇市街地、その先には東シナ海、慶良間諸島までが一望できます。

この眺めのよい一角に「もてなしの心で生涯を貫いたウチナーンチュ」内間清さんの記念碑がありました。

詳しいことは存じ上げないのですが、内間さんを悼んで北海道の方々が建てられたもののようです。

小ピークから園路伝いに少し下がってくると、崎山御嶽、崎山樋川のある小広場に出ます。崎山樋川(さきやまひーじゃー)は、王府の神女であった大阿武志良礼(オオアムシラレ)がお正月に参詣することになっていた、いわば格式の高い井戸であるようです。

●現地の解説板より「崎山樋川」
王府時代、年中行事のおりには、崎山御嶽とともに、高級女神官であった大阿母志良礼の参詣がありました。
また、良い方角(恵方)が巳(南南東)に当たる年には、元旦に王様へ献上する若水が汲まれました(若水=元旦に初めて汲む水)。

写真にするとまったくわかりませんが、柵越しに覗き込んでみると、今もうっすらと水が溜まっていました。
冒頭から何度も書いているのですが、上写真で見ればわかるように尾根のすぐ下で集水域などほとんど無さそうなのに水が湧くのだから不思議なものです。

井戸上部の尾根からは首里城の建物が見えました。継世門の奥にある焼け残った建物ですが、名前は知りません。

この樋川のあたりが鞍部になっており、尾根を横切るように一般道が通っています。その道を下りていくとNo.3000で登場したヒジガー橋の方へと続くのですが、今日は渡って向こうの尾根の方へと上ります。

2~3分歩いて、公園としては南端の雨乞嶽の広場までやってきました。継世門のそばから歩いて来たので端っこのような書きぶりになりますが、公園の駐車場はここにしかないので、車で来る方にとっては崎山公園の玄関口です。
ここには21世紀初頭までテレビかラジオかのアンテナ塔があったはずですが、いつの間にかなくなって芝生広場になっていました。

ここの展望台は園内でもとくに眺めがよく、西方向の那覇市街地越しに海までが、遮るものなく一望できます。

こちらが雨乞獄の雨乞御嶽。その名の通り、かつては旱魃になると国王が自ら雨乞いの祈願をした御嶽だそうです。
長半径が8メートルくらいの楕円形(馬蹄形)をした石垣に囲まれた中に小さな拝所があり、拝所の背景は小さいながらも御嶽の森が作られています。

本来、沖縄の御嶽は森と一体のものなので、ここにももっと立派な森があったのでしょうが、今は寂しいものです。

雨乞い御嶽の周りの広場に復元移設されているのが「御茶屋御殿石像獅子」で、沖縄戦までは御茶屋御殿の火災除けの守り神として置かれていた寄石造の獅子です。

「八重瀬岳が火難をもたらす」という話はNo.2666 ジリグスクを訪ねた時にも出てきました。八重瀬岳からジリグスクまでは500メートルほどなのですが、ここ首里城までは9km以上離れているので、ずいぶん遠くまで火の勢いが届くものだと感心します。

■現地の解説板より「御茶屋御殿石造獅子」
那覇市指定文化財(有形民俗文化財)
昭和61年(1986年)6月25日指定
1677年につくられた王府の別邸御茶屋御殿にあった石造の獅子で、火難をもたらすと考えられた東風平町富盛の八重瀬岳に向けられていました。
18世紀、文人として名高い程順則が、御茶屋御殿を詠んだ漢詩「東苑八景」に「石洞獅蹲」と記され、御殿を火災やその他の災厄から守る獅子が称えられています。
もとは、現在の首里カトリック教会の敷地にありましたが、がけ崩れの恐れが生じたので、現在地に移しました。

もともとの御茶屋御殿の場所が現在は私有地になっているため、公園内でもいちばん御茶屋御殿に近いこの広場に、石獅子に限らず御茶屋御殿に関係するものが集まってきています。
展望台の麓に置かれているのは、「空手古武術首里手発祥の地」の石碑。その昔、御茶屋御殿に空手家が集まって稽古や演舞をしたという関連があるらしいです。

沖縄空手の流派は、首里手(シュイディー)系、那覇手(ナーファディー)系、泊手(トゥマイディー)系、上池流(ウエチリュウ)系に大別する事ができます。
首里手は、首里王府に仕えた人たちによって受け継がれたもので、現代につながる沖縄空手の祖とされる佐久川寛賀(さくがわ・かんが;1786-1867)に師事した松村宗棍(まつむら・そうこん;1809?-1899)が首里手の始祖とされています。

そこからまた色々な流派が枝分かれしていく様子が石碑の表に描かれていますが、あまり詳しいことは知りません。

それよりも気になるのは裏面です。
「生誕232年」という極めてキリの悪い年を掲げたのは、祖である佐久川の生誕をどうしても記念碑に取り入れたかったのでしょうか。それとも沖縄風、あるいは空手スタイルの暦の数え方では、なにかキリのよい数字になるのでしょうか。

そして何よりも、そうまでして石碑に入れたかった「生誕」の文字を、いちどは「生延」と刻んでしまっていることがいちばん気になります。なんとか無理やりゴンベンを挿入していますが、製作した石材店は冷や汗モノだったことでしょう。

展望台の横から崖下に降りると、みはらし館という地区公民館のような施設があり、公園はそこでお終いです。

尾根沿いに美しい首里崎山公園でした。

(2021年11月訪問)

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