うちょうもう公園は、浦添市経塚の住宅地内、地名の元になった「経塚」の周りにある公園です。
「もう(毛)」は沖縄の言葉で、集落の集まりごとなどで利用される野原のことなのですが、「うちょう」の意味がまったくわかりません。ただ、わからないなりに考えてみるに、沖縄本島の言葉には、オ音がウ音に変化する(親:オヤ→ウヤ、夜:ヨル→ユル)、キ音がチ音に変化する(箒:ホウキ→ホーチ)という法則があり、沖縄:オキナワ→ウチナーと変化するので、オキョウ→ウチョウと変化したではないかと考えています。
まぁ「経塚なのでオキョウ」は、そんなに凄い発想ではありませんが。
もう少し引いた位置から撮影すると、こんな感じ。
右奥の少しこんもりとしたところが経塚、周りの平場が公園、手前の道はもともとは琉球王府が整備した街道のひとつ・中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)だそうです。
ちなみに公園から北へ200メートルほど離れたところには、立派な石組みアーチ橋のある石畳道が復元整備された区間があります。
それはさておき、まずは経塚。
道路からは参道状に10メートルほど引き込んだ先に塚があり、その上に石碑が載せられています。雰囲気的には、もともと道路と塚とはもう少し近かったものが、近年の整備で参道・前庭部分が作られたのではないかと思います。
もう少し近寄って、塚と石碑の本体。偉いお坊さんが、妖怪を鎮めたものだと伝えられています。
ゲゲゲの鬼太郎なんかでは、なにも知らない子供がイタズラで石を動かして大変な目にあうパターンですね。
■現地の解説板より「浦添市指定文化財 史跡 経塚の碑」
昔、このあたりは松が生い茂る人里はなれたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。16世紀のはじめ、高野山で修行した日秀上人がお経(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑を立て、妖怪を鎮めたと伝えられています。その後、地震のときに「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えるとおさまると信じられるようになりました。
お経を埋めた塚を経塚といい、この地域の名前の由来となっています。経塚の碑は旧暦10月1日のウマーチヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。
昭和56年3月2日指定 浦添市教育委員会
経塚が引き寄せてしまうのか、周辺の区画整理事業など経塚地区に関係する石碑が集められた一角もあります。
区画整理の記念碑に、大きく刻まれているのは「いちゃりば兄弟(ちょーでー)」。
パッと目にすると兄弟演歌歌手のような字面ですが、漢字にすれば「行き逢えば兄弟」となるのでしょうか。「一度会ったら皆兄弟」といった意味の言葉で、ここでもキ音がチ音に変化する現象が生じています。
石碑の碑文はすごく長いので掲載しませんが「夕陽が丘と呼ばれるように、東シナ海を一望に収めることのできるこの地域を、碑の『いちゃりば兄弟』の如く益々一致協力して住み良い環境づくりに邁進していただきたい。」という願いが刻まれています。
一方、ほんらいは「もう」であったであろうスペースは、経塚の裏側に広がっています。
とくに施設整備はなく、まさしく「もう」ですね。
フェンス際まで行ってみると、No.2374で登場した浦添グリーンハイツのあたりが見えました。
都市計画上は、浦添グリーンハイツの方と繋がって、もっと大きな公園になる予定だといううちょうもう公園(前田公園うちょうもう広場)でした。
(2020年1月訪問)
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