2297/1000 須藤公園(東京都文京区)

2019/11/27

庭園 東京都 文京区

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須藤公園は、文京区千駄木の斜面地にある大名庭園の跡を活かした公園です。
江戸時代には加賀・大聖寺藩の下屋敷でしたが、明治以降に実業家の須藤吉右衛門の邸宅の一部となり、後に東京市に寄付されて公園となりました。
その後、15年ほど前にリニューアル工事が行われて、現在のような施設内容となっています。

といったことが、園内の案内板に書かれていました。

■現地の案内板より「須藤公園」
文京区千駄木三丁目四番
江戸時代、この地は、江戸の郊外にあたり、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷でした。屋敷は、閑静で敷地も広く、後に弥生岡をひかえ、前には遠く東京湾を隔てて房総半島の山々が望まれるなどの景勝の地でした。
庭園の規模はさほど大きくありません、起伏に富んだ地形を巧みに活かした回遊式の大名庭園が造られ、今日でも当時の大名の気風を偲ぶことができます。
池泉内には、約30坪(約100平米)の中ノ島があり、古くから弁財天の祠堂が祀られ、燈篭と玉石敷きの州浜が風趣をそえています。
明治維新後、長州(現在の山口県)出身の政治家、品川弥二郎(1843~1900)の邸宅となり、その後、明治22年(1889)実業家の須藤吉右衛門に買い取られ、庭園は、須藤家屋敷の一部として、大名庭園の旧態を損なわないよう保存されました。
昭和8年(1933)須藤家から公園用地として、東京市に寄付され、市は山水の補修と公園として必要な施設等の整備を行いました。
昭和18年(1943)東京市は東京都となり、昭和25年(1950)公園は、文京区に移管されました。区は、池や滝などの改修を行い、区民に親しまれ活用される公園とするために造園を行いました。
公園名は、須藤家の厚意を伝えるため、名づけられたものです。

平成15年3月 文京区

池の中央に見えるのが、解説板にも出てくる弁財天の祠堂。中ノ島までは赤い橋で渡ることができます。
しかし、それよりも気になるのは、池端に建てられた「命名 への河童」の標識です。

よく見ると、池の周りの柵には「かっぱに注意」という標識も付けられています。

ということで、ひとつ上の写真をもう一度見直してみましょう。
わかりますか?
弁天堂の手前にもっと小さな島があって、そこに河童がいることが。

肉眼でも見えにくいので、デジタルズームの力を借りると、このとおり。
コンクリート製の排水桝のようなものの上に台座を置いて、小さな河童が座っていました。

河童に注意しながら、赤い橋を渡って弁天堂に向かいます。
気を抜いていると、狭い橋の上で相撲を挑まれるかも知れません。まぁ、あのサイズの河童なら勝てるようにも思いますが、油断は禁物です。

弁天様は縁結びにご利益があるということで、女性名義の絵馬がたくさん納められていました。
公園の中に残るお社なので、絵馬を売っているわけでもないのですが、皆さんはいったいどこで買ってくるのでしょう?

弁天島からはもう一本橋が架かっていて、丘の方へ登ることができます。

写真にするとわかりにくいですが、須藤の滝。
滝・流れ、池・島と、小さいながらも池泉回遊式庭園の基本をおさえたものとなっています。

滝と少し離れ、園内のどこからも見えにくい丘の上部に、子供向けの遊具も設置されていました。
日本庭園の景色をつくるためには遊具が見えては困るし、かと言って物陰に置いてしまっては使いにくい、という事情を考慮したベストポジションだと思います。

遊具の脇には、池を見下ろす東屋。
解説板にあったような「前には遠く東京湾を隔てて房総半島の山々が望まれるなどの景勝の地」とはいきませんが、まぁまぁの見晴らしです。

須藤公園の周りの坂道を登るとお屋敷町、下がれば下町。
でも今は坂の下に地下鉄が通っているので、公園の中を通り抜けて駅へと向かう人も多いようです。

こちらも下がって、池の畔の大きな藤棚を眺めます。
きっと花の季節は池に映えて、美しくなることでしょう。

藤棚の横手には、昭和天皇の皇太子、つまり明仁上皇の誕生を記念する歌碑があります。
碑文によれば、歌碑とともに公孫樹(イチョウ)の記念植樹もされたようなのですが、現在の歌碑の周りには、それっぽいイチョウは見当たりませんでした。
だいたい、歌はマツを歌っているのに、どうしてイチョウを植えたのでしょう?

かしこくも 親王あれませり 九重の
 御そのの松は 日の昇る頃


■裏面の碑文(読みやすくしています)

東京市聯合青年団本郷区林町分団にては皇太子殿下御降誕を慶祝し奉り、御歌所長子爵入江為守閣下に和歌を乞い、茲に碑を建て公孫樹を植し以て紀念とす
昭和10年2月11日 団長 子爵 大給 近孝

アイテムが多い分だけ、ちょっとずつ不思議が残る須藤公園でした。

●おまけ
公園のすぐ隣の建物の前に、「講談社発祥の地」という石碑がありました。

■現地の解説板より「講談社発祥の地」
1909年(明治42年)11月, 青年・学生の弁論と精神修養のための雑誌「雄辨」発行を志した 30歳の野間清治は, 東京団子坂下の借家 (旧・本郷区駒込坂下町48番地。現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辨會」の看板をかかげた ― 講談社の創業である。
創業時よりこの地にある 伊予青石に刻まれた文字は, 第6代社長 野間佐和子の揮毫になる。

1996年7月4日  株式会社 講談社

「あ~、講談社発祥の地も、今はマンションになってるんだ」と思いながらよく見たら、今も講談社の社宅でした。
創業の頃、須藤公園はまだ邸宅ですね。

(2019年7月訪問)

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