2018年4月11日

1761/1000 加賀公園(東京都板橋区)

板橋区の加賀公園一帯は、江戸時代には加賀・前田家の下屋敷でした。
さすが百万石の大大名だけあって、屋敷と言っても山水を取り込み、敷地内で鷹狩ができるほど広大なもので、その面積は21万8千坪。現在の単位では約72万平米ですので、代々木公園(約54万平米)よりも、現在の板橋区加賀町(ざっくり48万平米)よりもずっと広いお屋敷だったようです。
まぁ普天間飛行場の480ヘクタール(480万平米)と比べれば1/6以下ですが。

天保13年(1842)年の絵図

あまりに広いので、明治に入ってからは農地として開墾されたり、後には陸軍の兵器工場として開発されたりもしました。その下屋敷跡の1パーセントにも満たない約5,200平米、庭の隅の築山だったところだけが、現在の加賀公園となっています。

上の絵図にも、石神井川の南に築山がいくつか描かれているので、そのうちのどれかが公園に今も残る築山なのでしょう。
文字が潰れて山の名までは読めないのですが、位置的には西側の樹が生えていない山かなぁと思います。

東側にある山は針葉樹がたくさん生えているので、自然の山かも知れません。

それが今は、こんな感じです。
交差点に近いメインの出入り口から入ると小広場があって、右手に回ると石神井川に沿った園路、中央の階段は築山上に通じているので、平場はあまりありません。

先に築山上に向かいます。
下写真は通り抜けてから振り返っていますが、築山の中ほどに小段状になった直線的な平場があります。ここは公園敷地が陸軍の「板橋火薬製造所」だった時期に使われていた電車の線路跡だそうです。

■現地の解説板より「電気軌道(トロッコ)線路敷跡」
区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。

国土地理院のサイトでは、戦時中の1944年(昭和19年)に撮影された空中写真が公開されているのですが、そこには線路敷がはっきりと写っていました。
下写真の右手、No.1760 中央公園で登場した十条兵器製造所の方から、掘り込み状になっている埼京線(南北方向の太い線路)を跨線橋で越え、そこから一旦南(下方向)に回り、石神井川の森を渡って現在の公園内へと通じています。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より
整理番号:C36(8913)/コース番号:C2/
写真番号:407/撮影年月日:1944/10/24(昭19)

と、写真だけで話してもわかりにくいので、線路が入っている地図で確認。下図で工科学校分校の「分」の字が今の築山あたりです。
国際日本文化研究センター所蔵地図データベースより
1934年(昭和9年)改訂版『模範新大東京全図』

その線路跡を歩いて築山の西の方に出ると、今度はコンクリート製の構造物が保存されています。現在は茂みの中にあるため少しわかりにくいのですが、これが火薬製造所の時代に弾薬の研究に使われた「弾道検査管の標的」です。
トンネル状に設置した検査管の中を撃ち抜くような形で、この的に向かって弾丸を飛ばして、火薬性能などを検査していたそうです。

■現地の解説板より「弾道検査管(爆速測定管)の標的 」
区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬〉の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
戦後、旭化成などの創業者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

で、この的に向けて撃っていたのは、現在は公園外にあたる隣接地(公益財団法人 野口研究所の敷地)に含まれる建物からのようです。
板橋区では、加賀公園とこの隣接地をあわせて「板橋区史跡公園(仮称)」として整備していくことを決定していますが、現時点ではまだ公園ではないので、公園内から見える範囲で覗き見をさせてもらいました。白い2階建てが当時の燃焼実験室、土管のようなのが弾道管、横のコンクリート建物が試験室です。

ただ、隣接地でも一部で工事が始まっており、加賀公園との地盤レベル差をなくすための盛土が行なわれていました。

上写真から左の方へ目線をずらしていくと、旧・試験室から壁を一枚隔てて、線路跡もずーっと続いています。
板橋区の構想では、現・公園敷地からここまで線路を復元(または表示)するような考えがあるようです。

再び園内に戻り、標的のところから築山の北側に回り込むと、初めの方に登場した出入口から右手に回った園路、すなわち石神井川沿いに通じています。
ずいぶん色々と見て回ったような気がしますが、出入口からは100メートルも離れていません。

これから近代化遺産・戦争遺産としての色合いの濃い史跡公園整備が進めば、おそらくブランコはなくなってしまうであろう加賀公園でした。

板橋区HPより国史跡としての加賀公園の紹介

(2018年1月訪問)


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