日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2017年4月22日

1452/1000 簀子公園(福岡市中央区)

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簀子公園はNo.1451 浜の町公園から西へ400メートルほど離れたところにある小公園です。
「簀子(すのこ)」は1964年(昭和39年)までの旧町名で、福岡市のHPには地名由来として「この町の北の海中に『簀子石』と呼ばれる大きな岩があったことによるといいます。この岩と地中で続いている簀子石が昭和の初期まで現在の家庭裁判所付近にあり、潮の干満が分かる神秘の石と言われましたが、その後姿を消してしまいました。」と書かれています。
文章が少し言葉足らずなように思いますが、海中の簀子石と裁判所付近にあった簀子石は地下でつながっている巨大岩だったということでしょうか。

さて、そんな簀子公園。
もともとは北に隣接する簀子小学校と併せて一街区となっていたのですが、2014年(平成26年)に小学校は移転・統廃合されており、訪れた時には体育館だけが残っていました。
また公園と学校とが行き来できる出入り口は閉鎖され、小学校側には工事車両が入ってきていましたので、訪問後に体育館も解体かも知れません。

園内は整った長方形をしており、真ん中にパーゴラをおいて土敷きの多目的広場と遊具広場とに分かれています。多目的広場は、まぁ普通ですね。

外側からみると、フェンスの外に花壇がありました。なんとなく、もともとはフェンスがなかったところに後から継ぎ足したような不思議な構造です。

一方の遊具広場には複合遊具、ブランコ、揺れる動物などの遊具が設置されていました。

点数で言うと少なめですが、複合遊具は公園の規模の割には大きくて、1基でかなり遊べそうです。

揺れる動物はウマとパンダ。

ところで、公園と学校の間にはこの地区の戦災死者供養塔がありました。
●現地の解説板より「戦災死者供養塔と簀子小の赤れんが塀」
昭和20(1945)年6月19日から20日にかけて福岡はアメリカ軍のB29による空襲を受けました。簀子校区のすぐ南側の福岡城跡に陸軍歩兵24連隊があったことから、この周辺は集中的に攻撃され、校区住民176名が犠牲になりました。戦災死者供養塔は、福岡大空襲で亡くなった校区の方々の慰霊のために昭和22年6月19日に校区有志によって建立されました。
空襲でも焼け残った簀子小学校の赤れんが塀は、高さ1.3メートル、長さ約90メートルにもおよび、同小学校が大正元(1912)年9月に現在地に移転してきた時に塀も築かれたと伝えられています。破損して修復したような箇所は、戦争中に何かあったときのための逃げ道としてくり抜いたものだと伝えられています。
簀子校区では毎年6月に追悼慰霊祭が行われ、戦争の悲惨さと平和の素晴らしさを後世に語り継いでいます。

中央区役所企画課

解説板に書かれている「破損して修復したような箇所」は、れんが塀のここだろうと思います。
空襲時の逃げ道と言うには少し小さいというか、くぐり抜けないと通れないように思いますが、非常用なので必要最小限だったのでしょうか。と言うか、高さ1.3メートルもないので、後に回収されているような気がします。

おまけ.
公園内に放置されていた、トンカチとシャッターを開閉する時にくるくる回すやつ(名称不明)
いったい何があった?

(2016年11月訪問)

【2017年6月追記】
西日本新聞に、この公園の赤レンガ塀の記事が出ていました。
これによれば、元々は高さ1.3メートルあったものを、地震での倒壊を避けるために高さ40センチに改修して保存したのが上記の状態だということです。
いくらなんでも低すぎると思ったのは、間違いではなかったようです。

●西日本新聞記事「戦争遺構、変貌惜しむ 旧簀子小・赤れんが塀一部残し」
>https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/336784/

 福岡大空襲で焼け残った、旧簀子小学校(福岡市中央区)の赤れんが塀が一部を残し取り壊され、今月半ばに工事が完了した。「地震で崩れたら危険」(市教育委員会)という判断で、地元の自治連合会も了承した。空襲当時を知る関係者からは、戦争遺構の変貌を残念がる声も出ている。
 市教委によると、旧簀子小の主に南側にある赤れんが塀は以前、長さ約96メートルで高さは約1.3メートルだった。「塀がたわみ、傾いていた。熊本地震を受け、福岡でも地震があったら危ないと考えた」(用地計画課)ため、昨年8月ごろに簀子自治連合会に全体の高さを下げることを打診。一部保存を求める声が出たため、約24メートル分はそのまま残し、そのほかは高さを40センチに下げたり、取り壊したりした。
 旧簀子小の南側に隣接する公園との行き来を考え、スロープも設置。自治連合会の田上稔会長(75)は「見通しがよくなったという意見もたくさんある」。今年2月から始めた工事は、今月15日に終えた。

 れんが塀には空襲でのこんな逸話が残る。
 当時、簀子小の南側には圓應(えんのう)寺が隣接。両地を仕切る赤れんが塀は、全国で空襲が激しくなると一部が撤去され、子どもや住民が寺にも小学校にも避難できるような抜け道になった。
 大空襲のとき、圓應寺の三木和信住職(78)はその抜け道を通り、簀子小の防空壕に母と避難した。寺の表参道が火の海だったからだ。運動場の下に掘った防空壕。一帯の炎で熱くなると、大人たちが足元の雨水をバケツですくい、屋根にかけたという。
 簀子地区では176人が犠牲になったとされる。運動場と墓地に多くの遺体が並び、その一画で荼毘に付された。黒こげの遺体もあり、身よりが見つからない遺骨は、抜け道を通り寺の墓地に埋葬されたという。
 抜け道は戦後、セメントで固められた。その場所も今回、高さ40センチまで下げられ、かつての抜け道を想像することは困難になった。三木住職は「戦争体験者が減り、遺構も数少ない。そのまま保存するべきだったが…」と話している。
=2017/06/20付 西日本新聞朝刊=

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