1452/1000 簀子公園(福岡市中央区)

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簀子公園はNo.1451 浜の町公園から西へ400メートルほど離れたところにある小公園です。
「簀子(すのこ)」は1964年(昭和39年)までの旧町名で、福岡市のHPには地名由来として「この町の北の海中に『簀子石』と呼ばれる大きな岩があったことによるといいます。この岩と地中で続いている簀子石が昭和の初期まで現在の家庭裁判所付近にあり、潮の干満が分かる神秘の石と言われましたが、その後姿を消してしまいました。」と書かれています。
文章が少し言葉足らずなように思いますが、海中の簀子石と裁判所付近にあった簀子石は地下でつながっている巨大岩だったということでしょうか。

さて、そんな簀子公園。
もともとは北に隣接する簀子小学校と併せて一街区となっていたのですが、2014年(平成26年)に小学校は移転・統廃合されており、訪れた時には体育館だけが残っていました。
また公園と学校とが行き来できる出入り口は閉鎖され、小学校側には工事車両が入ってきていましたので、おそらく訪問後に体育館も解体されたのだろうと思います。

園内は整った長方形をしており、真ん中にパーゴラをおいて土敷きの多目的広場と遊具広場とに分かれています。多目的広場は、まぁ普通ですね。

外側からみると、フェンスの外に花壇がありました。なんとなく、もともとはフェンスがなかったところに後から継ぎ足したような不思議な構造です。

一方の遊具広場には複合遊具、ブランコ、揺れる動物などの遊具が設置されていました。

点数で言うと少なめですが、複合遊具は公園の規模の割には大きくて、1基でかなり遊べそうです。

揺れる動物はウマとパンダ。

ところで、公園と学校の間にはこの地区の戦災死者供養塔がありました。
●現地の解説板より「戦災死者供養塔と簀子小の赤れんが塀」
昭和20(1945)年6月19日から20日にかけて福岡はアメリカ軍のB29による空襲を受けました。簀子校区のすぐ南側の福岡城跡に陸軍歩兵24連隊があったことから、この周辺は集中的に攻撃され、校区住民176名が犠牲になりました。戦災死者供養塔は、福岡大空襲で亡くなった校区の方々の慰霊のために昭和22年6月19日に校区有志によって建立されました。
空襲でも焼け残った簀子小学校の赤れんが塀は、高さ1.3メートル、長さ約90メートルにもおよび、同小学校が大正元(1912)年9月に現在地に移転してきた時に塀も築かれたと伝えられています。破損して修復したような箇所は、戦争中に何かあったときのための逃げ道としてくり抜いたものだと伝えられています。
簀子校区では毎年6月に追悼慰霊祭が行われ、戦争の悲惨さと平和の素晴らしさを後世に語り継いでいます。

中央区役所企画課

解説板に書かれている「破損して修復したような箇所」は、れんが塀のここだろうと思います。
空襲時の逃げ道と言うには少し小さいようにも思いますが、非常用なので必要最小限だったのでしょうか。

おまけ.
公園内に放置されていた、トンカチとシャッターを開閉する時にくるくる回すやつ(名称不明)
いったい何があった?

(2016年11月訪問)

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