1305/1000 近松公園(兵庫県尼崎市)

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近松公園は、近松門左衛門の墓(国史跡)がある広済寺の隣にある公園です。
公園の整備経緯については詳しく知らないのですが、隣接する近松記念館が1975年(昭和50年)に開設、公園は1986年(昭和61年)に開園したそうですので、この付近を近松ゆかりの里として徐々に整備してきた様子が伺われます。

園内には区画整理事業の記念碑があり、公園そのものは区画整理事業の一環としてつくられたようです。

とは言え、どこにでもよくある区画整理の公園とは一線を隠しており、近松にちなむということで和風テイストでまとめ、大きな池を中心にした散策型の公園になっています。

池の周りにはサクラやモミジが植えられており、花や紅葉の季節には美しくなるものと思われます。
池に注ぎ込む流れや滝もあって、子供たちは水遊びや魚とりに使っていそうな雰囲気でした。

一方、池見の東屋は、将棋を楽しむ男性陣に占拠されています。
ここだけでなく、園内のあちらこちらで青空将棋を楽しむ人が見られました。これも和風効果というべきなのでしょうか。

そして池の南端にはアヤメ園があり、ちょうど美しい花を咲かせていました。

と、このように庭園仕立ての場所だけではなく、林間広場のようになっていて元気に走り回れる空間もあるのですが、

外周柵は石造になっていて、やはりなんとなく和風です。

そして、こちらが近松門左衛門の銅像。極端に仰ぎ見るほどの大きさでもなく、親しみやすいサイズになっています。

●碑文より『近松門左衛門 小伝』
近松門左衛門は承応2年(1653)越前藩士杉森信義の次男として福井に生れ、幼名を次郎吉、長じて信盛、巣林子と号した。

のち吉江に移り、父が仕官を辞するとともに京都へ上る。
京都では一条恵観などの公卿に仕え、やがて浄瑠璃、歌舞伎作者として活躍、宇治嘉太夫や竹本義太夫に浄瑠璃を、また坂田藤十郎に歌舞伎狂言を提供したが、宝永3年(1706)以降は大阪に移住して、もっぱら竹本義太夫のために浄瑠璃を制作し、尼崎にも来遊した。享保9年(1724)天満に没し、尼崎広済寺と谷町妙法寺に葬られた。作品は百篇を越えて、名作に富み、なかでも「曽根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」「心中天の網島」などは傑作の誉れが高く、世界に誇るべき日本最高の劇詩人である。
昭和60年5月 森修識

さて、公園を出て、隣にある広済寺に行きますと、近松門左衛門のお墓があります。
なんと呼ぶべきパーツなのか知りませんが、お墓の門にあたる部分には、上の碑文にも出てきた「近松巣林子」と刻まれています。

お墓の横には呼び鈴のようなボタンがありますが、これを押せば簡単な案内が流れるようになっています。
ただ、この時はスピーカーの音量が極端に小さくて、木の葉がそよぐだけで聞き取れなくなるほどでした。

仕方がないので、ここでも解説板を転機。

●広済寺の解説板より『国定史跡 近松門左衛門墓所』
当山は、もと禅寺であったが荒廃していた所を、開山日昌上人が正徳4年(1714)に法華経の道場として再興した。
近松門左衛門は、日昌上人の父であるところの大阪・松島の船問屋尼崎吉左衛門の館で諸国往来の話を聞き、浄瑠璃の脚本を書いていた関係から、再興の本願人となって盡力した。
其の後、近松翁の遺言により、日昌上人は遺骨をもち帰り当山に葬った。
近松翁は、本堂裏に(近松座敷8畳3間)を造り、数々の名作を書き残した。
毎年11月22日命日には盛大に近松祭が催されている。
近松翁の墓は昭和41年3月国の史跡に指定された。(廣済寺)

近松門左衛門というビッグネームにちなむ割には、総じて長閑な雰囲気の漂う近松公園とその周辺でした。

(2016年5月訪問)

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