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2015年10月3日

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No.10601061と江戸時代の土佐藩蔵屋敷にちなむエリアの公園をめぐりましたが、今回からは薩摩藩がらみのエリアに入ります。
と言っても、距離にして400~500メートルなので隣みたいなものですが。
2003年発行の大阪城天守閣図録『特別展 浮世絵師 初代長谷川貞信が描いた幕末・明治の大阪
-「水の都」の原風景-』に掲載されている『萬寿大阪細見図』(1863年(文久3年))を引用・一部加筆

公園名になっている薩摩堀は、江戸時代のはじめに豪商・薩摩屋仁兵衛が開削した堀川です。ここには薩摩からの船が出入りし、堀端には南国物産を扱う商家が並んでいたそうです。
●現地の標柱より
東側の家並付近を流れていた薩摩堀川は寛永7年(1630年)薩摩屋仁兵衛らによって開さくされ、江戸時代薩摩の商船で賑わった

現在の薩摩堀公園は、地下鉄阿波座駅と西長堀駅とに挟まれた業務ビルとマンションとが混在する地区にあり、それでいてメインストリートからは一筋入ったところにあるため、妙な静けさのある公園です。

公園の隣には小学校があり、バケット式のブランコや鉄棒もあって子供の利用も多いと思われますが、訪れたのは平日の昼間だったので大人の方が多く見られました。

タバコを吸う人、スマホをいじる人、営業電話をかける人。思い思いに公園を使う大人の皆さん。

ところで、堀川が埋め立てられたのは戦後になってから、その一部が公園になったのは1953年(昭和28年)のことなのですが、公園内には皇紀2600年記念の「八紘一宇」の石碑がありました。
戦前に地区内のどこかの公共空間に置かれていたものが、公園整備後に移されたものだと思われます。

私の感覚からすれば、戦後に整備された公園にこれをどこかから移転させてくる意図がわからないのですが、当時の地元で公園整備を主導した方々にとっては、たとえ体制が変わろうとも粗末には扱えないものだったのでしょうか。

そして公園の斜向かいには、このような会社がありました。
薩摩で「ゆら」と言えば幕末のお由羅騒動ですが、こちらの会社は字違いなのでとくに関係はないことでしょう。

(2015年8月訪問)

【2018年3月追記】
別件で日文研の所蔵地図データベースにある1943年(昭和18年)に日本統制地図(株)が発行した『最新・大大阪全図』を見ていたら、記事本文に書いた「堀川が埋め立てられたのは戦後になってから、その一部が公園になったのは...」が間違っているように思い当たりました。
どうも、戦時中には小学校の校庭だった部分が現在の公園になり、薩摩堀だった部分は道路になっているようです。
この付近に広教小学校があったことは理解していたのですが、公園の東隣に現存する市立明治小学校分校の位置がそれで、公園と道路をあわせた広い範囲が薩摩堀かと考えていました。
上記資料より当該箇所を抜粋

しかし、そうすると八紘一宇の石碑(国旗掲揚台)は、もともと小学校にあったものがそのまま残っている可能性が高いように思われます。

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