964/1000 岩崎橋公園(大阪市大正区)

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さて、No.963の大正橋公園付近には江戸幕府の「木津川口遠見番所」が置かれていましたが、そこから西に300メートルほど離れた岩崎橋公園付近には官船を運用する役所である「御船蔵」が置かれていました。

「大して離れていないし、どちらも幕府の施設だから、ホントは並んで建ってたんじゃないの?」と思って日文研の所蔵地図データベースで公開されている1837年(天保8年)の『天保新改攝州大阪全圖』を見ると、しっかりと離れた場所にありました。
実は両公園が面している岩崎運河は1920年(大正9年)に開削されたもので、それ以前は木津川と尻無川の間はこの付近では繋がっておらず、遠見番所は東の木津川に、御船蔵は西の尻無川に面していたことがわかります。
国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースより
『天保新改攝州大阪全圖』 南北を調整して抜粋

これが岩崎橋から見た現在の尻無川(岩崎運河)。右が大正区、左が西区です。

■現地の解説板より 「御船蔵跡(おふなぐらあと)」
三軒家地域は、豊臣時代から開発者の中村(木津)勘助の名前をとって、勘助島(かんすけじま)と呼ばれていました。江戸時代には「御船蔵」と「木津川口遠見番所」が設けられ、御船蔵は岩崎橋公園附近(現在地)、番所は大正橋公園附近(現在地の東方)にありました。
 「御船蔵」は幕府の官船等を納める施設で、文書や地図にも記録されています。当地の御船蔵が蔵した官船名は明らかではありませんが、幕府の「川御座船 」には紀伊国丸(きのくにまる)や土佐丸(とさまる)等の名前が見られ、漆塗りの屋形を持ち、金銅の金具をつけて豪華な装飾を施され、櫓と棹で航行する川船でした。明治23年発行の大阪実測図にも跡地に「字船屋舗(あざふなやしき)」の文字が見えます。大正9年に開削された岩崎運河にも敷地の一部が取り込まれました。
 なお、公園北側の環状線の擁壁面には、「昭和3年の道路開通記念碑」が埋め込まれています。

ここでまた、気になるものが紹介されているので、先に公園北側の環状線の擁壁面を見てみます。
岩崎運河を渡ってきた環状線の高架下をくぐる小さなトンネルがあり、その脇に件の「開通記念碑」がはめ込まれていました。

それによると、当時の大阪臨港線(現在、この付近ではその路線が大阪環状線に転用されている)の土盛り高架が通ったために、ずっと東の大正橋付近まで遠回りしないと尻無川(岩崎運河)の北側に行けなくなったため、鉄道省や大阪府市に陳情してなんとかトンネルを開けてもらったという内容が書かれていました。
こんな小さなトンネルにも歴史あり。

さて、やっと公園に入ります。
面積は800平米ほど、周りを道路に囲まれた小さな公園で、それほど目立つ施設はありません。

地区の福祉会館(老人憩いの家)とほぼ一体的な敷地になっている上に、その福祉会館のすぐ横にはスーパーの出入口が開いているため、自転車の通り抜けはかなり多いようです。

そういう立地ならではで幼児向けの遊具ばかりが置かれており、憩いの家にくるおばあさん、買い物に来るお母さんに連れられた小さな子供にはちょうど良いくらいの公園だと思います。

元気のいい小学生には狭すぎるでしょうが。

(2015年2月訪問)

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